昨夜、友人のコンサートがあり、招待してもらったので行ってきた。2,3年に一度くらいしか会わないけど、会えば時間を忘れて忌憚なくなんでも話せる仲間だ。彼は今や世界をまたにかけて活躍するアーティストで、音楽作品だけではなく、映像や音響インスタレーションも精力的に発表し続けている。その極度に洗練されながらも、ある意味暴力的でもある作風と、その筋における第一人者的存在でもあるのも相まって、マニアックな信奉者も多いらしい。
今回の再会は2年半ぶり。積もる話もあり、深夜まで話し込んでしまった。その中で、彼の音楽家としての活動について話していた時、自分は音楽的な教育をちゃんと受けたわけではないので、自分が扱える素材を自分なりのやり方で構築しながら作ってみるしかなかった、みたいなことを話してくれた。そこで、やっぱこいつすげぇな、知足の極みじゃん、と思い、さらに、それって侘びの精神だよなぁ、そんなこと本人は考えてないだろうけど、やっぱり引き算型ってことだろうなあ、日本っぽいなあ…とか思いながら聞いていた。
というか、高次元の数学の方程式を作品に導入しているという(そんなこと言われても何のことやらさっぱりわからないのだが)、数学マニアの彼のキワキワに切り詰められた感じの作品はコンテンポラリー寂びアート、超寂び作品なんじゃないかなぁ、と非常に大雑把な当て推量でつかみ直してみようと思っていた矢先だったので、何だ、侘び寂びは彼の作品の中で現代的発展をしちゃってたんだな、なるほどなるほど、と一人密かに合点してしまった。そういう意味では村上隆が歌舞伎的なら彼の作品は能っぽいとも言えるし、う〜ん、やっぱりなるほど、ヤツの作品には日本があるんだなあ、興味深し、とかなんとかかんとか…。
侘び寂びとか言い始めると、もう手垢にまみれた感じがするので、あんまりあからさまに持ち出したくはないのだけど、このあいだのインスタレーション製作以来、侘び寂び、特に「寂び」について考えることが多い。寂びっていうのは、おそらく実体を持ったままで存在をどれほど透徹できるか、その意志とそこに向かっていく実生活の中で生まれてくる表現に現れてくる様式のことではないかと思う。何かこう物質を引きずったまた抽象的な方向に離脱して行こうとする垂直的で概念的な志向が寂びの中にあってそれが日本文化の縦軸になっていて、他方、物質を肯定しながらどこまでその物質自体のキャラを、あれこれモノ同士の関係性をも巻き込みながら、引き出して生かすことができるかという記号的な志向が侘びの方にはあって、それが日本文化の横軸をなしている、とかいうような捉え方もできるなあ、とか考えている。
例えば、華道家の川瀬敏郎は日本の花にまつわる文化において、立て花がタテ軸、投げ入れが横軸をなしていると言っているそうだ。ここに上の仮定を代入すると、立て花的な気分を突き詰めれば寂び、投げ入れ的気分を極めようとすれば侘びていく、ということになるのだろうと思う。投げ入れを創始したのは侘茶の千利休だし、そんなに間違ってるってわけでもないだろう。
日本文化以外のことも視野に入れれば、この縦軸は科学的概念で横軸は野生の思考(レヴィ=ストロース)的記号ということになるのだろう。そういうふうに考えると、西洋の場合は、この縦軸文化ばかりが頑強になりすぎて、横軸文化は衰退の一途を辿っていて、世界全体を巻き込んでそのギャップが取り返しのつかないところまできてるようにも見える。全世界でここでいう「横軸」にあたるものを色々思い浮かべてみるといいのだけど、それら(例えば女性性とか補完通貨とか家族とか暮らしとか)は全般的にかなりの抑圧状態にあるように思う。
そこで日本のことを考えると、侘び寂びといったときにどちらかというと侘びの方がまだ強い影響を持っている(ようにぼくには見える)この国の文化はうまくすれば、このグローバルな環境文化的危機に対して有用で有効な何かしらが提案できるものをまだ持っているんじゃないかなあ、と思えたりする。まあ、それは日本の政治なんかに頼ってては全くダメなんだけど、そういう意味では千利休みたいな人物が、文化的で美学的な野心なり野望なりを持って活動してくれるのを待つしかないのかもしれないと思ったりもする。でも、あんなすごい人がそうそう現れるわけでもないだろうし、そういう意味では、必ずしも楽観的にはなれない。(あ、いかん、なんか無駄にちゃんとしたことを書こうとしちまったな…)
ぼくはレヴィ=ストロースの言う「ブリコラージュ」的なやり方が好みだし、その方が効率がいいので、どちらかというと横軸人間で、部屋にいる時でもどちらかというと、畳の上で横になっている方が心地よい(これはあんまり関係ないかw)。そして横道とか横丁とか横超とか横槍とか横臥とか横言とか、横のつく言葉が好きだったりもする。(しかもなんと高校の時に付き合っていたのは横山さんだったし!)やっぱり西洋に暮らしているとどうしたって椅子での生活が基準になっている感じがするし(あ、いや、やっぱり姿勢の問題は関係あるような気がする)、概念的に説明したり物事を進めたりするような縦軸人間であることを(キリスト教文化に)半ば強要されるような感じがして、未だに居心地の悪い思いをすることが多い。
なんだか話が瑣末なことに向かっているような気がしないでもないけど、まあそれはそれとして、だからと言って、日本に戻って住みたいかというわけでもない。それは、基本的に怠惰なぼくが畳やコタツの素晴らしさを他文化からの目線で再認識し、それらに対する渇望を抱えたまま日本に帰ってしまうと、一生引きこもって、生ける横軸、畳中毒のコタツジャンキーとなって毎日ゴロゴロ何にもしなくなるのを恐れるからなわけだけど、そういう意味ではこの縦軸西洋世界の只中で生ける横軸としてあちこちで寝そべってみようとし続けてみるという抵抗もありなのかもしれない。ちょうど今日、フィデル・カストロも訃報も届いたことだし、今夜は、ひとりぼっち横軸プチ革命でも妄想してみよう。