東北 I 県の T 知事にツイッターで無邪気な質問が飛んだ。
「知事は若い頃、聖子ちゃん派でした? それとも明菜ちゃん派?」
T 知事は答えた。
「戸川純派です」
読んだ瞬間、もう I 県に引っ越そうかと思ったね。
僕の住む H 県の知事は、大河ドラマ『平清盛』の濃度の乗った重厚な映像表現を見て「海が汚い」と文句を言った男だし、隣の O 府の(元)知事は文楽劇場なんか要らないと吐き捨てた輩である。
戸川純は本物の歌姫です! と颯爽と言い切る男を知事に戴く I 県。眩しいぜ!
僕は T 知事とゆるく同年代である( T 知事は49歳)。かくいう僕も戸川純にどっぷりつかった青春を過ごした。
16歳の頃、23歳のゲルニカ・純ちゃんに恋をして、46歳の現在にいたっても53歳になる彼女を崇拝し、大阪にライブが来れば必ず観に行く。
戸川純と言えば、一番有名なのはパッヘルベルのカノンに自ら歌詞をつけて歌った『蛹化の女』(むしのおんな)だろう。たいへん美しい歌詞で、ジャスラックがうるさいこと言わないのならばここに丸写ししたいところだが、まぁ無理なので、知らない人はwebの歌詞検索サービス等を当たっていただきたい。要約すると、月光の白い林で切なさのあまり蝉の蛹(さなぎ)と化した娘の背中から哀しみの茎(冬虫夏草)が伸びる、というような、美しさに背骨がわななくような歌詞である。蜷川実花の映画の挿入歌にも使われたので若い人でも知ってる人は多いと思う。
(ちなみに蜷川実花の父蜷川幸雄も『サワコの朝』に出演した折、好きな曲は戸川純の『蛹化の女』と、そのパンクバージョンである『パンク蛹化の女』、と答えている。世界の蜷川が「はじめてこの曲を聴いたとき、今まで自分は何を作ってきたのかとショックをうけた」という素敵な余談。)
さて、いきなり熱く戸川純の話から入ったので今回は虫の話ではないのかも、と油断された方も多いかと思う。申し訳ないがまた虫の話である。
『蛹化の女』は蜷川幸雄も茫然自失する名曲であり、僕ももちろん愛しているが、そして愛する純ちゃんにケチをつける気は毛頭ないが、蝉の蛹、というのは厳密に言うならば間違いである。蝉はサナギにならない。
蝉の幼虫は長く過ごした土中を出て、木の枝などに掴まりながら、背中を割って白い成虫の姿を現す。小学生の頃、羽化前のアブラゼミの幼虫を捕まえて虫かごに入れ、夜中じゅうその羽化の姿を観察したことがある。見たことのある人もいるだろうか? まだ色素の沈着しない真っ白な体が透明の羽根に透け、陶然とするほどの美しさである。
この美しい羽化の直前、たしかに幼虫はじっと動かなくはなるのだが、その状態を蛹というのは、文学的修辞としてはアリでも生物学用語としては正確でない。蝉は蛹の状態を経ず、「不完全変態」で幼虫に似たままの姿で成虫になる。
小学生の頃住んでいた家には庭にパセリがあったので、キアゲハの幼虫がよくついた。蝶は「完全変態」の昆虫なので、蛹の状態を経て成蝶になる。パセリをむしゃむしゃ食っていたハイパーポップな色柄のイモムシが、ある日突然動かなくなったかと思うと、糸でパセリの茎に体を固定してもぞもぞ脱皮して蛹になり、一、二週間微動だにせず過ごしたあと、背中を割ってキアゲハの成蝶が出てくる。
蛹の凄いところは、幼虫(イモムシ)が、その蛹という不思議な状態を経ることによって、イモムシとは似ても似つかぬ形状・身体構成の成虫に変化するという、その摩訶不思議、驚異である。劇的なメタモルフォーゼ、この中で一体何が起こっているのか?
Wikipediaから引用(「蛹」)
蛹は成虫の大まかな外部形態だけが形成された鋳型である。その内部では一部の神経、呼吸器系以外の組織はドロドロに溶解している。蛹が震動などのショックで容易に死亡するのは、このためである。幼虫から成虫に劇的に姿を変えるメカニズムは、未だに完全には解明されていない。(引用終わり)
最近、この蛹の中の様子をMRI画像でとらえた研究のニュースがwebに出ていたのだが、この記事の中で今回はじめてMRIで蛹の変化を連続的にとらえるまでは、研究者は当然各段階の蛹をたくさん集めていちいち切開して調べていたのだ、と書かれていた。
このニュースを読んで、思い出したのである。僕は小学生の頃一時期昆虫を好きだったのに、なぜそれが「一時期」でしかなかったのか、なぜ僕は昆虫オタクへの道を邁進しなかったのか、について。
僕も、やってしまったのである。
蛹の切開を。
上のWikipediaの引用をもう一度読んでいただきたい。
「その内部では一部の神経、呼吸器系以外の組織はドロドロに溶解している」
小学生の僕はそれをこの目で見たのである。液状であった。イモムシである幼虫が蛹を経て蝶になる、その「途中」は、なんとドロドロのスープ状なのである。それを見てしまった十歳児の心中を想像してみてほしい。衝撃、なんて言葉も生やさしい。大袈裟な言い回しを許してもらえるなら、まさに液状の罪を背負ったのである。
あの日を境に、僕は昆虫のコの字も言わない子供になった。
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上に引用したWikipediaの記事の、引用箇所よりも少し前の部分に、蛹になる前の幼虫に関する記述がある。
「幼虫の体はひたすら餌を食べて栄養を蓄えるのに向いた形態をとる。彼らの体は概ね、餌を認識する最低限のセンサーと消化器官から出来ているといってよい。」
今回蛹のことを調べていて、正直一番ざわざわしたのはこの説明だった。
「餌を認識する最低限のセンサーと消化器官から出来ている」
我々人間には「心」というものがあり、おそらく系統の近い類人猿とか、もしかして犬猫あたりにも、「心」というもの(少なくとも多少はそれに近いもの)があるんじゃないかと思う。しかし、これはきっと断言してよいだろうが、蝶の幼虫には、おそらく「心」なんていうものはない。
ならば「心」とは一体何なのか、という話になるのである。
餌の方向を感知するセンサーと消化器官があれば「生きて」いける、いやむしろ大半の動物は「心」などというものを必要とせずに生きている。
前にとある脳科学者の本を読んでいたら「無意識下で進行している脳内情報処理を事後的にモニタリングする機能を『心』(=意識)と呼ぶ」というような意味のことが書かれていた。人は「心」が「自分」をドライブしていると思い込んでいるが、実は走る自分を後追いで「認識」するだけなのだという。意識が行動を統べるのではなく、結果が意識を作るのだ(「受動意識仮説」)。
その仮説に従うならば、その生物が「心」(=意識)を持つかどうかは、つまりそのモニター機能を持つかどうかということであり、無意識下で体中から送られるシグナルを「体験」として翻訳し意識化するためには、やはり相当に高次な脳機能を必要とする。そうでないと「心」は持てないということになる。キアゲハの幼虫には無理だろう。
もちろん受動意識仮説は「仮説」である。もしかしたらイモムシにもイモムシなりの「心」の萌芽のようなものがあるかもしれない。しかし、少なくとも僕らはイモムシと「わかりあえる」ようなことにはならない。命の形としてあまりに隔絶している。この隔絶が畏怖の感情を抱かせる(と前にナナフシの回でも書いた)。
僕ら人間の祖先は昆虫とは別系統の生物ではあるけれど、ぐんぐん遡れば、原初的な哺乳類を通過して、もっと単純な組成の何かに行き着くだろう。そしてその生物はイモムシのように「心」とは別のシステムで生活していただろう。隔絶とはいうものの、我々も昔通った道なのだ。
進化の過程で、人は「心」という仕組みを獲得した。「心」のことを考えたければ、どうしても、それ以外の方法で生を制御している者たちへも関心が向く。
僕の虫好き・動物好きは、どうやらそういうところから発しているみたいだ。
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[ 告知 ](終了しています)
来月の記事公開の時期にはもう始まっているので、今のうちに少し宣伝を。
3月17日より、大阪心斎橋のアクリュB1Fギャラリーで、アパートメント第4期のライターでもあった野坂実生さんと写真の二人展を開催いたします。(野坂さんのアパートメント記事 https://apartment-home.net/author/nozakamiu/ )
野坂実生 × カマウチヒデキ写真展
『Quodlibet』
http://acru.jp/blog/disp/2014317
2014年3月17日(月)−23日(日)[ 19日(水)休廊 ]
12:00 – 20:00 [ 最終日は18:00まで ]
アクリュ http://acru.jp/
〒542-0081 大阪府大阪市中央区南船場3-7-15
サニービル西側1F+B1
TEL:06-6282-5533
「クォドリベット。
2つの歌を同時に歌うこと。
コード進行がシンクロすれば、別の歌だって重ねることが出来る。
いや別のコードが同時に鳴ってもいい。むしろそこから生まれる複雑で不思議な音響に耳を澄ませてみたい。
お互いの写真に対する共感と敬意と対抗意識。
作風はまったく異なる二人ですが、あえて一緒に場を編んでみようと企画いたしました。」
クォドリベットとは別々の歌を「せーの」で一緒に歌う遊び。
野坂さんの歌と僕の歌は一見全然違うけれども、よく聴けば通奏低音は同じだったりするのです。
きっと面白い展示になると思います。
お近くの方、その時期たまたまお近くにいる方、お近くなくても興味のある方、どうぞよろしくお願いいたします。