歩いているときには、細い小道を見るとそちらのほうに曲がりたくなるし、分かれ道ではまだ通ったことのないほうを選びたくなる。そうしたささやかな願望を満たしてやるためには、時間や体力に余裕がなければならない。急いでいたり気にかかることがあったりすれば、最短距離で早めに目的地まで着きたくなるものだし、だいいちそんなときには交通機関を使うから、ゆったり歩くこともまずない。
そんなわけで、ゆったり歩く時間を強制的につくってしまうことがある。集合時間より早い時間にひと駅手前で降りてみたり、いつも使う交通機関をあえて使わずに歩いたり、旅先で何もすることがない時間に外に出てみたり。最近は、夜なかなか眠らない子供 (最近わが家にやってきた) を抱っこして、家のまわりを歩く機会も増えた。(というかほぼ毎日やっている)。家のまわりって、実は、身近すぎて、あまりゆったり歩く機会がないのだ。
大通りを外れて、すべての道を通り抜けるべく、街の細部を舐めるように行きつ戻りつしていると、頭のなかに、自分だけの地図が構築されていく。まずは、ひとつひとつの道が認識できるようになる。すてきなベランダの家がある道、よく猫をみかける道 (真っ白とブチ)、電線にオオコウモリがぶら下がっているのを一度見た道、などなど。そして次には、道と道が平面上でつながりあってくる。この小道はあの道に通じて、この道とこの道はむこうのほうで合流して戻ってくる、といったような。
そうして比較的狭いエリアを何度も行ったり来たりしていると、たとえ、ふだん暮らしている身近な場所であっても、道一本へだてた向こう側に、いかに自分の知らない世界が広がっているかがよくわかる。自分の足で、世界をちょっとずつ塗りつぶしていく感覚。マップを起動して地図を眺めたときでさえ、その道を歩く前と後とでは、感じ方が違ってくる。画面を眺めながら、その道を歩いたときの雰囲気を思い出している。
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ゆったり歩いているときには、疲れない脚と尽きない時間があればいいのになと思う。きょろきょろしながら歩いていると、あの先の道はおもしろそうだ……! という嗅覚がはたらくことがある。目的地への道を急いでいるときでも、マップに提示された経路とは違う道が魅力的に見えて、そちらに足を向けたくなることがある。こういうときに方向を変えるのは、ある種のバクチである。そうしてとった道が、行き止まりになっていたり、ぐるっとまわって別なところに出てしまったり。しかし、うまく通り抜けられて、もともと予定していた道と所要時間がほとんど変わらなかったりすると、してやったり、と思う。
特徴的な建物や景観にねらいを定めて、あそこまで行ってみよう、という遊びも楽しい。なにも確かめずとにかく最短距離で歩いていこうとすると、行き止まりになっていたりして、かえって長い距離を歩くことになったりもするけれど、ふだん歩かない道をたくさん歩けるので、それはそれでよろしい。たどりついた目的地から振り返って、どこからここが見えていたのだろう、と探すときの気分は最高である。
ゆっくり歩く道の途中ではおもしろいものに出会う。ふと、ひらけた場所に出て、微妙な色の空がわーっと広がって覆いかぶさってくるのを見ると、なんだかうれしくなってしまう。小さくて狭い道ではたいてい、両側に塀が迫っていて、蔦や見慣れぬ植物が繁茂しており、つきあたりに見えるカーブミラーのオレンジと良いコントラストになっている。雨に濡れたアスファルトや街路樹は呼吸をしているような感触を帯びるし、夜風が通りすぎる道路で、そこだけ黄色の光に浮かびあがらせて、電灯はぽつんと立ち尽くしている。
人間の存在を感じさせる気配はどれも好きだ。色とりどりの洗濯ばさみが洗濯ヒモにぶらさがって揺れている庭や、早朝の薄闇のなかで明かりの灯っている家。その場所にはあきらかにそぐわない落とし物、たとえば、陸橋に落ちているフランスパンの切れ端や、裏道に落ちているピンクのコップ。後日同じ道を通って、落とし物がまだあるか、すでに消えているか確認するのも楽しい。落とし主が拾いに来たのか、風や生き物によってどこかに飛ばされてしまったのか。
歩いているときにはそういうものをおもしろいと思っていても、あとになってみると思いだせないことが多い。そもそも、歩いているとき、わたしはなにを見ているのだろう? はじめて歩く道では、きょろきょろまわりを見まわしておもしろいものを探している。知っている道では、あの貼り紙はまだあるだろうかとか、いつもの場所に猫はいるかとか、特徴的な目印を確認している。けれど、そうやってみつけたり確認したりしたものは、その場を通りすぎるとすぐに忘れてしまうようだった。歩いているわたし自身と同じく、思考も、ひとところにはとどまらないのかもしれない。
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どの移動手段をとるかで、見えてくるものも変わってくる。電車や自動車では、外部の空気と自分のまわりの空気が切り離されていて、本当に「乗り物に乗っている」という感覚が強い。自転車やバイクは対照的に、自分とまわりの空間が地続きになっていて、歩いているときと近い感覚がある。
しかし、自転車やバイクなどの乗り物に乗っていると、気になるものに行き当たっても、あっというまに通り過ぎてしまう。もちろんUターンして確かめることもできるのだけれど、どことなくめんどうで、実際に引き返すことはほとんどない。そもそも、交通法規を守るのに気を取られて、まわりをきょろきょろ見回す余裕はない。乗り物に乗っているときに見えているのは、細部をじっくり確かめるようなディテールではなく、前から後ろへ絶え間なく流れ去っていくのを消費するための景色だ。
以前、自動二輪のバイクに乗っていたことがある。長い距離を移動できるところは気に入っていたけれど、そのスピードに怖さを感じていた。アクセルをひねるとエンジンが音を立てて、自分の意思とは別に存在する速度が、わたしの感覚をおいてきぼりにして、わたしの体だけを連れ去ってしまう。そんな違和感がずっとあった。この違和感は、90キロの道のりを日帰りで往復したときにずっと強くなって、もはやぬぐい去ることができなくなった。スピードが出るほど意識が縛られていき、感覚の領域が縮んだところが怖さに満たされていった。このとき以降、わたしはバイクで長い距離を移動するのをやめ、結局そのうち、バイクにも乗らなくなってしまった。
歩いていると、スピードの遅さにげんなりすることもある。そういうときはたいてい、自分のなかに余裕が足りていないのだ。速度のかわりに見えているものに注意を向けることで、歩くのがすこし楽になる。