ハンドルの曲がった速い自転車に乗りはじめてから、風のことを意識するようになった。そよそよと頬で感じるくらいの風でも、真向かいから吹いてくると、ペダルを回す足には力が入っているのに、いつものようなスピードがでない。逆に、なんだか今日は調子が良いぞ、とすいすい進むときは、たいてい追い風が吹いている。窓を閉めていてもビューと音が聞こえるような向かい風の日には、歩くのと変わらないのではないか……というくらいのスピードになったりもする。ハンドルの先を握って姿勢を低くしようが、自分の上半身が風を受けて、どうしようもなくそこに存在しているという実感。
同じ道を何度か走っていると、季節や道によって、決まった方向から風が吹いてくるのがわかるようになる。基本的に、冬は北風で、夏は南風。周辺の地形によっても風の方向は変わってくるみたいで、谷間になっているところでは急に向かい風になったりする。歩くときや、エンジンのついた乗り物に乗っているときには、風のことなんかほとんど考えないのに。おもしろいものだ。
たまに遠出をして、100 kmくらいの距離を走ってくることがある。適度に休みを取って、4-5時間かかる。とはいえ、自転車のスピードや走行距離を正確に測る機械 (サイクルコンピューター、略してサイコンという) をつけているわけでもないので、本当にそれくらいの距離を走っているかはわからない。Googleマップで調べたり、道路上で「○○まで20 km」といった表示を見たりして、それくらいの距離に該当するなということを大まかに知るくらい。
たぶんわたしは、パーツのカスタマイズや、いかに早く長く遠くまで走るかといったことにはそこまで興味を抱かないみたいで (そうできるならそうしたいとは思っているけれど)、自転車で走ること自体が楽しいらしいということに最近気がついた。チームメイトや対戦相手はおらず (そういうものが存在する自転車競技もあるけれど)、自分にとってちょうどよい負荷をかけながら、ひたすらペダルを回すだけでいい。視界に映る景色は次々に変わっていって飽きることはないし、かといってビュンビュン過ぎ去っていってゆっくり見ていられないほどでもない。適切なメンテンナンスを欠かさず、交通法規とマナーを守っていれば、自転車に乗っているあいだ、この世界はわたしひとりのものである。
そうであるから、遠出をすると言っても、どこか目新しい場所に行くことが目的ではない。初めての道も楽しいことは楽しいのだけれど、ルートを外れていないか気になったり、信号があって頻繁に停まったり、交通量の多い道路にでてしまったりして、走るということを純粋に楽しめない。わかりやすくて信号が少なく交通量も少ない、川沿い、山道、田舎道といったところで走りやすいルートをみつけると、いつもそこしか走らないようになってしまう。自転車でどこかに行くというよりは、決まったルーチンを繰り返しているような感じ。
東京の北千住に住んでいたときには、荒川のサイクリングロードの河口までの15 kmを毎回3往復していた。家から出て数分でサイクリングロードにたどりつき、あとはもう行ったり来たりするだけで良い。上流のほうにはもっと長い距離がつづいているけれど、下流に向かう道のほうが走りやすく、自然と同じ道を何度も行き来することになってしまった。川岸のゴルフ練習場から、冴えない音でへろへろのボールが飛んでいくのを眺めたり、対岸の大きなマンションのベランダに布団が干してあるのを見ていたり。花火大会があるときには大掛かりな会場も設営されていた。
京都に住んでいたときには、北山を自転車で登り降りしていた。杉の森が延々とつづく狭い道をくねくねと進み、急な坂を必死になって登ったあとは、だらだら伸びる下り坂を快適なスピードでこなして汗を乾かした。山のなかではほとんど車も人も通らず、茂った木々に覆われて、体感気温も2-3℃下がる。お地蔵さんのところでは湧き水を汲むことができて、いつもここで、ボトルの水を補充していた。山のなかには「熊出没注意」の看板まであって、もし坂下から登ってくる熊と出会った場合には、登る方向に逃げるべきか、隙きをついてうまくすれ違って速いスピードで下る方向に逃げるべきか、よく頭のなかで議論を闘わせた。京都の中心街から1時間自転車を走らせるだけでこんな山のなかに来ることができるなんて、いつも不思議な気分だった。
エンジンのついた乗り物に乗るときのような、なんだかずるをしているような物足りなさがなく、かといって、歩くときのような、まだこれだけしか進んでいないという焦燥感もなく、わたしにとってちょうどよいスピードと距離の感覚をそなえたものが、自転車なのだと思う。長い距離を走ったあと、Googleマップで自分の走った軌跡を再確認してみたりすると、大地の上に自分の足で線をひいていったような、不思議な感覚を抱く。
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夏には、窓の外に太陽の光があふれているのを見ると、自転車に乗りたくなって、そわそわしてくる。大学院生だった頃は、今より時間に余裕があったから、早朝から大学に行って、窓の外にいっきに真夏の太陽の光が満ちてくるのを見て気分がそわそわし、堪らず昼前に帰宅して、そのまま自転車に乗りにでていってしまうようなこともあった。しばらく自転車欲を我慢できるようならそうするし、できない場合には、そわそわして仕事も中途半端になってしまうので、思い切って乗りにでかけたほうがいいのだ (と自分を納得させていた)。
太陽の光とはエネルギーであることを、自転車に乗り始めてから実感したように思う。夏に自転車に乗ると、太陽から真下に見おろした面になる腕や大腿の上側が、とんでもなく日に焼ける。汗で流れていく日焼け止めを重ね塗りするか、アームカバーなどを装着しないと、やけどのようになってひどいことになる。その一方で、太陽から影になる腕や脚の裏側は日焼け止めを塗らなくともほとんど焼けることがない。太陽光線があたる面にだけ、そのエネルギーがぞんぶんに注がれるのだ。
日焼け止めを塗っても皮膚はけっきょく焼けて (そのかわりやけどのようにはならない)、色が黒くなる。グローブや、ピチッとした服の半袖と腿のところの境界がはっきり白黒になって、とてもおもしろい。見えない力に影響されて、自分の体が見た目を変えていく。刺青やピアスをするのってこんな感覚なんだろうか。
人類学では、ヒトの体毛のうち頭髪が特に残っている理由について、二足歩行をはじめたことによって頭上に直接当たるようになった太陽光から身を守るため、という説明がある。眉唾な仮説だなあと思っていたのだけれど、真上から射す太陽光の猛威を自転車に乗りながら確認していると、あながちバカにできないかもしれない、という気になってくる。
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自転車で走ることの何がそんなに楽しいのだろう。長い距離を走ると、脚は筋肉痛になり、首や肩がこって、本当にへろへろになる。脱水症状や熱中症ぎみになって、帰ってから倒れこんだように眠ったことも何度かあるし、ハンガーノックになって、ペダルを回す一足ごとに、もうしばらく自転車になんて乗るものかと思うようなときもある。上からは強烈な太陽に照らされて、下からはアスファルトからたちのぼる熱気にあてられながらペダルを回していると、全身の血が沸騰していくような感覚に襲われる。冬には指の先の感覚がなくなって、硬いものにあたるとパキンと割れてしまいそうな気さえしてくる。
たぶん、風や光の雰囲気や、ほどよいスピードや距離の感覚に加えて、そうした全身で感じる「苦しさ」に、やみつきになっているのだと思う。普通に暮らしている日常生活のなかでこんな苦しさを感じることはないから、自転車に乗るときに感じる苦しさのなかには、自分がたしかに生きているという実感がともなう。
そうでなくとも、自転車はとても爽快なものだと思う。よく晴れた道に、ぷかぷか浮かぶ雲の影が落ちて、風に流されて動いていくようなとき、ペダルを回して、そういう雲の影と並走したり、追い抜かされて身の回りがちょっと暗くなって涼しくなるのを感じたりするのは、本当に楽しい。走りながら下を向くと、自転車についたいろいろなパーツがくっきり黒い影になっていて、道路の上に置いていかれることなくついてくる。シュッと突き出たアルミのパーツの硬さや、くるっとカーブしたチューブの細さが影を見てもわかり、その中心で回りつづける車輪からは静かに回転音が聞こえてくる。ボトルから飲む水のうるおいとか、休憩のときに食べるアイスの冷たさとか、ふだん以上に、そういうものをおいしく感じる。
自転車で走ることは、風や光や距離の感覚を通じて、ダイレクトに大地を感じるということだと思うのだ。
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ところで、わたしの内側から言葉がでてこなくなったので、しばらくお休みします。
それでは、もしかしたら、また近いうちに。