写真集や雑誌で、横位置写真が見開き全面に配置されたページが好きだ。
中央に綴じ目がきて写真が分断される上、綴じしろ分の情報が欠損するという欠点があるのだが、それでもなお写真を一番大きく扱えるという魅力には代えがたい。
中央の綴じ部分は海溝のように深く写真を引きずり込み、分断の先に続くらしい暗黒が写真に無限の底知れなさを付与する(かもしれない)。
特に真ん中に人物など主要被写体が置かれているような写真の場合はその欠損感が際立つ。中心喪失と、見る者の想像に責任を転嫁する感じ。そうやって参加を強いているのだとも言える。
ある種のファンタジーである写真に、ページの綴じ目というガチの物理が介入してくる唐突感。情け容赦ない物理の存在に、ファンタジーたる写真はより空想的昇華を遂げ、綴じ目の暗部との対比を際立たせる(かもしれない)。
とまぁ、少し大袈裟めに言い訳してみたがどうだろう。
去年何冊か私家版の写真集を作って販売したのだが、その時も見開き横位置を多用して、果敢に被写体の真ん中を分断した。
とはいっても多少の逡巡はあるのである。僕の写真の中では比較的人に知られてもいる三宮の街中を闊歩するドーベルマンの写真や、緑の地面になぜか静かに死んでいた小鳥(センダイムシクイ)の写真など、直球ど真ん中構図で撮った写真を、片面に小さく全貌を見せるか、両面使って大きく扱うか、やはり悩みはした。
しかし、結局真ん中で切る方を選んだ。
買ってくれた方の中から、やんわりと違和感も聞こえてはきたのだが、「そこは想像力で参加してください」と無茶目の弁明をする。見る人の想像を少し借りて完成する写真というのも、なかなか素敵じゃないですかね。あ、違う?
さて。
去年作った写真集たちは、いずれも過去作からの編集で、本にするために新しく撮ったりはしていない。
なのでそこにあるのは編集するという作業だけだった。そこにある写真をズラすか切るかという決断はレイアウターとしての自分だけが責を負えばよい。
しかし、今年はビーツギャラリーの写真修行僧企画で毎月1冊写真集を作っているので(まだちゃんと続行していて今は9月号がギャラリーに置いてあります)、すべて新しく撮影した写真なのだ。
すでにある写真をどうレイアウトするか、というのは編集人役の自分がそこで悩めばいいだけの話だが、新しい写真で写真集を作る場合は、そこに撮影者としての僕も一から関わらざるを得ない。
レイアウトのために写真の構図を変えるというのは、僕が古い人間だからだろうか、かなりの屈辱なのである。仕事で人物写真を撮っているときでさえ、「カマウチさん、あとで編集に困るので背景は広めに撮っといてください」とか言われたら、そりゃ仕事であるから渋々同意はするけれど、内心ハラワタが煮えくり返っているのである。
どうフレーミングするかというのは撮影者に決定権があるべきだ。フレーミングのフチというのは大事な大事な領域なのだ。
写真集を作るのに撮影者としての僕と、編集者としての僕の二人の人格が要るわけだけれども、真ん中で写真を分断できたりするのは編集者としての僕の仕事であって、撮影者の僕は、本当はレイアウトなんかに制約を受けるのは我慢できない。
正しい答えは「撮るときは撮る人として縛られず集中し、編集者人格になったときに情け容赦なく大ナタを振るう」である。そんなことはわかっている。
だがしかしだ。この二つの人格を、もちろん完全には分離できないのである。
撮影中、まさにシャッターボタンを押さんとするときに、編集者人格の僕が囁く。
「おい、ちょっと中心ずらしとけ」
目の前に現れた何らかに対して、起きた情動そのままに撮る、という撮影者として厳守すべきルールに、編集者的見地が混入してしまい、結果として不本意な写真を生み出してしまうことになる。
結果として囁きに負けてフレーミングを妥協してしまっても、うるせえ黙ってろ、と意地を通しても、撮るべき時に一瞬でもすくめば、その写真は何かを失ってしまうものだ。
なかなかこれに決着をつけられぬままに修行僧の号数が進んできた感じだ。あとから全冊通して眺めてみれば、逡巡と弱さの記録、小さな不本意の歴史をその中に読めるのかもしれない。
中央の綴じから右に左に揺れ動く被写体が、撮影者としての僕の軟弱さの航跡でもある。
もう来年は「本」は作らずに、しばらく「写真」に集中しようかなと思う。