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3F/長期滞在者&more

わからない

長期滞在者

旧知のM君が写真集を出版した。
以前から『IMA』などに採り上げられているものも見ていたし、何度か展示を見たりもしているけれど、実のところ、いつも彼の写真はよくわからない。
そもそも「写真」かどうかもわからない。
フォトグラム(本来は印画紙の上に物体を置いて直接露光したり、カメラを使わずに画像を生成する手法)の亜種、という説明だが、その説明では何が何だかさっぱりである。
最近のものを見ると、まるで電子顕微鏡の図像のようで、何かわからないものが密集したり蠢いてそうだったりしている。たまに珈琲豆みたいなわかりやすい具象物も写っているから、まるで出鱈目を捏造した画像でもなさそうだが、それを素直に写真と呼ぶにはいささかの躊躇が要る。

梅田の蔦屋書店で扱っているというから見に行ったのだが、初日は見るだけ見て、購入せずに帰った。
よくわからないものに3960円という金額を出すのには勇気が必要だ。いくら旧知と言っても、出版したからとご祝儀的に即買いできるほど最近の僕は経済的に余裕がない。収入激減。コロナきついよね。

しかし買わずに帰る道すがら思ったのである。
「わからない」ということはどういうことであろうか。
じゃあ逆に「わかる」ということはどういうことなのだろうか。
わかるものにはお金を払い、わからないものは躊躇する。インスタグラムにつく「いいね」と同じだ。わかるー♪ いいね。

わかる、というのは既成の価値だから「わかる」のである。最近たまたまtwitterで写真史家のTさんが書いていたが、たとえばわかりやすい例として「美人」というのは既成の価値である。時代の多数決である。だから美しいとされる人を使って新しい写真というのは作りにくい。そもそもが大勢の了解のもと「よき」とされているものなのだ。いかに工夫して撮ろうが、それはどうしても古い価値観に依ったものになる。確かにまったくその通りである。

わからないけれどどうやら出鱈目でもない、難しい写真をM君が撮っている。
実はこれはすごくチャンスなのではないだろうか。
いわゆる「良い写真」というのは、見慣れた価値観の上に立っているから良い写真なので、そして僕らは写真集を買ったりするとき慣性的に「良い」とされている観点を基準に物色してしまうし、自分で写真を撮るのにも「良かれ」と祈ってシャッターボタンを押すのである。別にそれは悪いことではないし、まぁ、普通はそうする。
しかし良いと新しいは違うのである。
別に新しくなくても「良い」のならそれでいいではないか、という意見もあろうが、いくら「良い」ものでも、満ち満ちれば滞って淀む。いつまでも良いものが更新されないところに人は住めない。常に新しい「良い」を開墾する責務を、実はあらゆる人は負っているのである。
ただの難解な図像集なら何かきっかけがないと買いにくいが、この写真集はせっかく旧知のM氏が作ったものである。難解であるからこそ学ぶという責務を履行するのに良い機会であった。
心地よいものは、たぶん心地よいままだが、難解なものは、こちらの何かをこじ開けるかもしれない。

というわけで翌日もう一度買いに行った。それ以来、何度もこの作品集をめくっては眺めている。
捏造された架空の電子顕微鏡図像というか、架空のクマムシ的存在や架空の細胞壁みたいなものがウゴウゴしているように見え、その躍動がキショくて、架空の吐き気を誘発する。あくまで架空の吐き気である。生々しい嫌悪感は催さない。何かの超拡大コピーのようにも思え(実際印刷物の断片等を使っているようだ)、ミクロな世界を詰めていくと逆に中に広大な宇宙が広がっているという恐怖感にも似た捻じれを思ってみたりもする。宇宙は想像を絶して広大だが、極小の世界も無限に極小らしいと知ったときの寄る辺なさ。世界の大きさの概念が逆転する魔術装置としての電子顕微鏡。それを想起させるからだろうか。

見慣れてみると楽しく思えてきたし、たとえばそのまま「STUDIO VOICE」なんかのポップすぎるページ構成のレイヤーに組み込まれていそうなオッサレー感すら仄見えてくるから不思議だ。
ただし難解といえば難解なままである。簡単に腑に落ちていく図像ではない。
ただ、わからないままわからないという様相を楽しみたいと思っている。簡単に言葉に落としてなるものか、とも思う。

わからない体験というのは大事なのだ。
わからないものを何度も見て、自分の脳内にある材料と照らし合わせ、自分なりのカテゴライズをする。自分の中の言葉に置き換え「理解」しようとする。
わからないものが何となくわかったように変化していくことは心地よいことでもあるが、しかしそれはせっかくの「わからなさ」を骨抜きすることであり、自分の偏狭な「理解」に押し込めてしまうことでもある。
結局こちらの理解の器が小さければ、その器に合わせて縮められて「理解」されてしまうし、言葉にしたら終わっちゃうぜ、みたいな部分もある。
わからない、という状態は貴重なのである。そんなことも考えた、M氏(なぜ名を隠す? 三保谷将史さんです。 笑)の作品集だった。



→ Masashi Mihotani「Images are for illustration purposes」



カマウチヒデキ

カマウチヒデキ

写真を撮る人。200字小説を書く人。自転車が好きな人。

Reviewed by
藤田莉江

わからないことに対する意識というか、こころもちみたいなものは大事だと思いつつ
つい、やっぱり、わかる心地よさにわたしは流されてしまう。
このわからなさの奥底には自分が知らない・理解できないだけで、大きな背骨が通っているのかいないのか。
ちゃんとそれがあるのだと表明されていたり、何故だか「ある」と確信できた時には皮を剥ぎ肉や筋を断ち、腑も除き
背骨までいつか辿り着けたら、と、その深さの知れない相手の体躯に気味悪くとも腕を突っ込んでみるような努力をしたいと思うのだが、

「本当に何かあるっていうの?この先に??」

と疑いばかりが大きくなってしまう時にはいくらその先に「何かある可能性」があるとしても、うんと訝しい顔をしてぴたりと手を止めてしまう。

その道の批評家でも何でもない見る側が作者に代わってそれを見つけて「あげる」ようではいけないと思うし
表明されていたところで納得できないものは納得できない。
それをただただ楽しもう、とするなれば、無いものすらも見てやればいいのかもしれないのだけれど
それはやっぱり納得がいかない、という小さいことをわたしはまだ言ってしまう。

結局、わかるもわからないも、わかりたいのか興味が持てないのかというひとつ手前のふるいにかけられてからの事である。
「わからないけど面白い」「わからなくて面白くない」この差は結局興味が持てるかということなのだろうから。
ただ、その作品(映画でも本でも絵画でも写真でも)にはじめて接した時でなくとも、後々に誰かから興味を持つきっかけになるような話を聞いたり、同じテーマのものを扱った別作品との出会いがいつしか「わからない」と一蹴したものと再会するきっかけをくれたりする。
そのことはとても素敵なことと思う。
だから自分も未知というものとなるべく数多く出会うことは非常に価値があると思うのだ。
わからなさとの対峙の仕方がカマウチさんとは違うなぁと思いつつ。

わからないAとわからないBとわからないCが、いつしか絡み合って何かわかるものへ変わるかもしれないこととか。
それが自身の内面を拡張してくれることとか。そのあたりの可能性は信じている。
そういう、種蒔くことなのだろうと思いたい。
そんなに気が長い方ではないけれど、そういう部分に関してはベツバラ的に、そのいつかを十分待てる。
わからないままにその時にも楽しめ、かつ、そのわからなさを大切にするようなカマウチさんみたいにはまだまだなれそうもない。
自分はわかる「いつか」が今日か明日か明後日か。味のないガムを吐き出すチャンスを狙うようになんだかんだその時を待っている。

それでも「わからない」との出会い自体はwelcomeなのだ。そう在りたい。

M氏・・・とはわたしも旧知なのですが、実はまだこの写真集、拝見しておりません。
近々に、わたしもそのわからなさと遭遇したいと思います。楽しみ。

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