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3F/長期滞在者&more

ダイレクト・ビューファインダー。

長期滞在者

僕はデジタルカメラのあのEVFというやつが、どうにも苦手である(EVF : 電子ビューファインダー = electronic viewfinder)。
一眼レフならばカメラ内部のミラーに屈曲されているとはいえ、眼前の光景とタイムラグゼロのものがファインダーで見える。ミラーを介した反射光であっても、それは現実の光景とひとつながりの光である。
ところが一眼レフではないデジタルカメラというのは、カメラ背面のモニターにせよEVFにせよ、カメラのセンサーでいったんキャッチされた「画像」を見ている。
最近はタイムラグがほとんど感じられないカメラが増えてきたが、当初はずいぶんと現実の光景より遅れてファインダー画面が動いたものだった。
最近のオリンパスのカメラなどをカメラ量販店で触ってみても、一瞬光学ファインダーかEVFかわからないくらいに滑らかに像が動くようになっており、多分慣れさえすれば気にせず使えるようになるのだろうとは思う。
それでも何だかなぁ、なのである。
「画像」を見ながらシャッターボタンを押す。この抵抗感は何だろう。

撮像素子にキャッチされた画像を見るのか、ミラーに反射された光路を見るのか、というミラーレスカメラと一眼レフの覇権争い(?)の外に、ひっそり忘れられかけている、もっとダイレクトに現前の光景を取り込んで撮る方式のカメラがある。たとえばライカに代表されるレンジファインダー方式のカメラ。あのカメラのファインダーは距離計が仕込んではあるが、ほぼただの素通しのガラスだ。
ライカが高すぎると言うならば、最近流行復活の「写ルンです」でもいいだろう。
ライカも写ルンですも、素通しの現実世界そのものを見ながら撮れるカメラである。
目の前の世界はカメラの存在に関係なく進んでいて、レンジファインダーカメラ(や、写ルンです)はそれを何も侵食せずに横からすくい取るイメージだ。フィルム(や撮像素子)に到達する光とはちょっとズレた別の光路からだが、写される対象を、写される瞬間に直接目で捉えている。
反射もさせない素通しの世界を見ながら撮るというのは、デジタルカメラに席巻されている今、逆に珍しい方式となった。
写ルンですが売れているという理由も、画像がノスタルジックであるとか曖昧であるとかそれ以前に、目の前の光をひょいとすくい取っている、みたいな実感があるからかもしれない。

そもそも以前はこれが普通だった。
目の前の光をすくいとるのがカメラだった。
一眼レフ方式のカメラが世界を45度づつ反射させはじめてから、撮影者はフィルムに収められていく光景が現実の光景であった実感を持ちにくくなっていった。
ましてや一度撮像素子に落とされた「犯行直後の現場」しか見ることができなくなった最近のカメラで、記録された画像が現前の光景そのものであると言われても、いったいどこにそんな証拠があるのだろう。
より露悪的な言い方をするならば、実際の光景を見ずにシャッターボタンを押すというのは、実際に殺傷の瞬間を直視せずに兵器を操作できるような、そんな罪悪感もつきまとう。大げさだろうか。大げさなんだろうな。でも、なんかそんな感じ。もどかしさと、得体の知れないうしろめたさと、にぶい皮膚感触と。

だからデジカメなんか信用しない。

・・・という話ではない。

まぁミラーレスでも一眼レフでも、ノーファインダーで撮るとか、三脚にでも乗せて世界を肉眼で見据えながら撮るとか、要するにファインダーを見ずに撮影すれば、世界とズレようもないわけである。カメラの外側は広大なダイレクト・ビューファインダーだ。
きっちりとファインダーの中に囲い込むような、カメラに世界を閉じ込めるような使い方ばかりをしていると、現実に通じる比重、みたいなものがよくわからなくなってしまう時がある。
煮詰まったら、ファインダーを無視して撮ってみる。変な自分の美意識みたいなものが排除されるぶん、ダイレクトに「光景」にぶつかれる場合がある。でたらめな光景が写るかもしれないが、今掬ったのだ、という時間のつながりだけはわかりやすいと思う。銀塩感材がキャッチしようがCMOSセンサーがキャッチしようが本質的な問題ではない。

以前「ファインダーのないカメラ」であるベッサL(コシナ・フォクトレンダー)という機種を持っていた。外付けファインダーを付けて、ピントは目測で撮るのだが、いっそのこと、と外付けファインダーも外して撮ったりした。広角レンズに目の前の世界を吸い取るのだ、みたいな。でたらめな写真を量産したが楽しかったことを覚えている。
お金に困って売ってしまったが、今考えると惜しいことだった。世界に斧を振り上げるカマキリのような健気さのあるカメラだった。
使い込んで塗装が擦れ剥がれてくると、金属ではなく、白いプラスチックの地色が見えてくるという拍子抜け感もカマキリの斧っぽかった。

999

888

骸骨

手話

酒蔵通り

表面張力
BOSS

西北仁王

雲
(2003)

・・・・・・

* 25日まで、カマウチヒデキと野坂実生の写真ユニット『Quodlibet』、第二回目の展示を東京・池ノ上のQUIET NOISEで開催中です。→ こちら

(終了しました)

カマウチヒデキ

カマウチヒデキ

写真を撮る人。200字小説を書く人。自転車が好きな人。

Reviewed by
藤田莉江

わたしも全くもってEVFと仲良くできないタイプなのだけど、それは単にまず視界に「酔う」から敬遠したというのが一番の理由で、その時点で引き返してしまったのでそれ以上深くは考えていなかった。

それでもこの話を読むと、カマウチさんのおっしゃる「何だかなぁ」は、非常に「何だかなぁ」と、同じく思う一人だ。

なんというか、一部の人には伝わると思うが、写真を撮る行為というのは、写真を撮るためだけに写真を撮っているわけではないのだということ。

「おっ!」と思ったものにカメラを向け、ピントをあわせ、そこでさらに「おおおっ!」と思ったり「あ。(そうでもないか)」「いやまて?」と思ったり、たとえばだけれど、そういうひとつひとつの思考・決断の流れありきで楽しい、という人は写真を趣味とする人の中には少なくないはずだ。

そして更に言うと、ファインダーを覗くより前に思い描いていたもの以上に「スゴイ何か」をファインダーのなかで見つけたいのがわたしたちなのだと思う。

だからそれを見たとき感動するし、ただ見るだけにとどまらず、シャッターを押してしまうのだ。

確実な結果、というのは確かに安心・便利だが、そこで短縮化されているのは結果までへの道のりだけではなく、この楽しみもまたすっ飛ばしている。
最短化されすぎて、思い浮かべる間も無く結果がやって来てしまうから、見えているもの以上を捉えることなどできないだろう。

そう、つまり楽しみを奪われるどころか、「お前はそれ以上を撮れない」というカメラからの呪いをかけられる事でもあると思う。

今その瞬間を捉えるという特性のある道具で、今その瞬間目の前にあったから撮りたかったはずの何かは、今その瞬間に見ているファインダーのなかには厳密には存在しないだなんて、一体どういうことだろうか。

言われてみればそういう疑問は当然だ。

現実から既に間引かれたその光から、一体何を見出せというのか。

実際センサーないし、フイルムに定着される時点では、間引かれたりはじかれたりするとしても、機械はなにかを見出すというようなことはしないのだ。

その特性を知った上で、その制約から脱する方法にノーファインダーという道があり、選択できる、というのが言われていることの1つだけれど、逆に自分の場合、どういう時にダイレクトな光景を掬うという目的で写真を撮るか考えると、それはパーティーだとかそういう人のいる動きのある場を思い浮かべる。
それ以外だと、咄嗟にファインダーを覗く暇もなく撮らなければ!とシャッターを切ったり、相手に気づかれないよう盗み撮りのようなことをする以外わたしはノーファインダーで撮ることをしない。

カマウチさんの言葉をお借りするなら、これは気持ちの上で「現実に通じる比重」が高い時、それをしたくなっているのではないだろうか。
そういうロジックを知らずとも、やっていた事を考えると、ああ、なるほどと腑に落ちる。

どのような機能のあるカメラを使用しようとも、その機能を必要とする理由がない場合、それを解除する試みをするというのは、そもそもの疑問無くしては成り立たない。

機械に依存する創作であるからこそ、そこを忘れてはならぬのだなと改めて思った。

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