テレビドラマを、というかテレビを見る習慣が小さいころから本当になかったので、坂元裕二という脚本家のことはつい最近まで知らなかった。きっかけは今年の冬に放送されていた「カルテット」という作品だったけど、それは昨年の暮れに「逃げるは恥だが役に立つ」を見て、毎週一度の放送を待つわくわくとか、映画とはまた違ったテレビドラマの面白さを知り、その後番組だったから見てみた、という感じで、1話は家事をしながら見ていた。だけど皿洗いやアイロンがけの合間で見るう役者の演技や画面の緊張感に、途中から手を止めざるをえなくなる。その後は目の離せない展開もさることながら、登場人物にかけられた呪いを外していくような会話劇の数々に夢中になり、毎回見ながら泣くことになった。それから坂元裕二の名前を調べてみると、「最高の離婚」「問題のあるレストラン」「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」など、近年話題になっていたドラマの名前がずらりと並ぶ。テレビと縁遠い生活を送っていることを久しぶりに恥じた(と言いつつ今暮らしている部屋にはテレビがなく、TVerという民放ストリーミングサービスで見ていたのだけど…このサービスがあって本当に良かった)。それからは時間ができるたびに、彼が脚本を手がけたドラマをDVDを借りては見続けている。
『往復書簡 初恋と不倫』は、その坂元裕二が手がけた2つの朗読劇「不帰の初恋、海老名SA」と「カラシニコフ不倫海峡」を書籍化したものだ。どちらも1組の男女が交わす手紙やメールのやりとりによって展開していく物語で、元になった朗読劇では公演ごとに異なる役者が出演している。その中には「カルテット」の主要人物だった高橋一生や、同じく彼のドラマで役を演じた酒井若菜、風間俊介などの名前が散見される。彼らの演技を想像してみるのも楽しいけれど、「往復書簡」としてまとめられたこの本は役者の身体を離れ、坂元裕二脚本の真髄ともいえる純粋な会話劇として存在している。
「不帰の初恋、海老名SA」は玉埜と三崎という二人の少年少女の文通にはじまる物語だ。文通は三崎の突然の引越しにより途絶えてしまったが、大人になった彼女からふいに手紙が届き、やりとりは再開されることになる。そこには、三崎はこの手紙を高速バスの中で書いており、東京に着いたらそのバスの運転手と結婚するのだ、ということが綴られていた。しかし、その手紙をサービスエリアで投函したあと、バスは交通事故を起こし、運転手は逃走してしまう。
「カラシニコフ不倫海峡」はアフリカに地雷除去のボランティアへ行った妻が、現地で少年兵に銃殺され、失意に暮れる男・待田の話。その男のもとに、ある女から一通のメールが届く。女は田中と名乗り、あなたの妻は生きていて、自分の夫と暮らしているのだと告げる。
どちらの物語も愛する人の不在の中で、その穴を埋める存在を緻密な会話劇で描く。それは雨とも雪ともつかない冷たい粒のように風に煽られながら、愛とそうでないものの間を行き来する。結晶しているかはあまり問題ではない。大切なのは、お互いに「これは愛ではない」と確かめ合うことなのだ。
スリリングなドラマの間で、彼らはどうでもいい会話をたくさん重ねる。変わった友人の話、今食べているものの話。それらは本筋の話に回収されたりされなかったりしながら、枝葉を伸ばしていく。その枝葉が感じさせるのは、彼らの孤独だ。会話に飢えていた者の饒舌さでやりとりは続く。それはどんどん膨らんで、正しいとか間違ってるとか、そういうことを超越する感情を芽生えさせる。
そもそも、2組の男女は「正しさ」というものを信用しない。
”玉埜くんはとても正しい。すごく正しい。ごめんなさい。でもそれは出来ないんです。”(「不帰の初恋、海老名SA」より)
”不倫ひどい。不倫最低。そんな正しくて当たり前なことしか言えない自分が恥ずかしい。”(「カラシニコフ不倫海峡」より)
正しさが機能するのなんて、大事なものが失われていない間だけだ。なのに壊れてしまったあとも、それは回転を止めようとしない。川に流されたり地雷を踏んだりしていなくなった人たちに、そんなことしなければと言ったって何も変わらないだろう。だけど「正しさ」は、その軌道から跳ね飛ばされた人のもとでも同じように回転し続ける。
太刀打ちのしようがない悲しみの前で正しいことを言うのは、降参するのと同じだ。だから4人は愚かであり続ける。機能しない正しさより、間違っていることの可能性に賭ける。それはささやかな抵抗かもしれないけれど、世界はつながっていて、小さな波を生む。そう、世界はつながっているのだ。それは別れてしばらく経った恋人の自殺未遂であったり、メキシコの麻薬戦争が日本でライムを手に入りにくくさせるようにだったり、様々な距離で世界を動かす。自分のせいじゃないと思えるような事件でも、僕たちは気づかないほどほんの少しずつその責任を負っている。
”川はどれもみんな繋がっていて、流れて行って、流れ込んでいく。”(「不帰の初恋、海老名SA」より)
自分の/他人の行いとか、正しい/間違ってるとか、複数のレイヤーを行き来しながら展開した物語は、流れ込んだ川を進んだ先で海に出る。そこではもう、いちいち区別できないくらいに混ざり合った、灰色の海が広がっているのだろう。でも、そこにはたしかに僕たちの一滴が含まれているのだ。
だけどそれは悲しみだけじゃなくて、喜びについても同じことだろう。だから二つの物語は、小さな行動が大きな事件を食い止めたことを明かして終わる。そのことこそ、坂元裕二が描こうとしている世界の在り方なのだと思う。
坂元裕二『往復書簡 初恋と不倫』(リトルモア)
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『往復書簡 初恋と不倫』は象牙色のカバーに鮮やかなブルーのしおり紐、簡潔ながらどこかはみ出した印象を与える文字組が美しく、装丁にも注目したいのだけど、この本は「天アンカット」と言う製法で作られており、ページ上方の高さが揃わず、がたがたとしている。その不揃いな感じも、登場人物たちの生き方を肯定しているようで愛おしい。ちなみに、以前取り上げたこだまさんの『夫のちんぽが入らない』も、この天アンカット製法だった。ページのがたがたを指で撫でながら、二冊に通底する世界へのまなざしを想う。