「いーるかいらんか、じゃんけんほい」
という言葉が唐突に思い出されて、何だったっけかと古い記憶を掘り起こしてみる。
小学生の頃、空き地で野球をするのにチーム分けをする。いつもリーダー2人は決まっていて(2人は群を抜いて野球がうまい)、その2人が交互に集まった子供を自分のチームに引き抜いていく。2チームによるドラフトだ。
1人余ったら、リーダー2人が「いーるかいらんか(要るか要らんか)」じゃんけんをするのだった。
1人余る子はもちろん野球の下手な子なので、実際は「いらない」わけだ。
じゃんけんに勝ったほうが引き受ける、というルールであれば、勝ち負けの確率は半々なのだから、その子のことを内心「いらない」と思っていても彼が傷つかない解決になるのに、そうしないところが子供畜生というやつである。
じゃんけんに勝った方に行くという大人な解決ではなく、負けた方に行くというドライな解決でもなく、わざわざじゃんけんして要不要宣告をするという残虐性が発揮される。
もちろん、集まった子の数が偶数ならこの無慈悲な裁判は行われない。また、すでにチーム分けが終わったあとに遅れて来た「下手ではない子」のために、ちゃんと「必要」を賭けてじゃんけんが行われる場合もある。
さらに言うならば、「いるかいらんかじゃんけん」で1人多い子の行き先が決めるとき、野球のうまい山田君がまだ来ていないな、来るかもな、という場合もあって、来るかもしれない山田君の獲得権のために、それほど下手でもないその子に「いらん」権を行使する、という駆け引きも考えられる。
どう考えても「いらん」子に「いらん」と言うために、「今日は山田来るかもしれんからな。いらんわ」と、多分来ないであろう山田くんの名を利用するという、少し優しい「山田君の利用法」もなくはない。
なんとなくそういう言い訳を用意しているのだから、実際みんな少しは後ろ暗く思っているわけで、かといって「勝った方がとるルールに変更しよう」と言い出す者もなく、このルールにみな罪悪感と嗜虐性の両方を味わっていたのだろう。
子供はいつの世も、まったくもって狡猾で残酷なのである。
びっくりするほど下手くそ、というわけでもないが、特に上手くもなかった僕は、常に「いるかいらんか」じゃんけんの対象になるわけでもなかったが、集まる人数によっては、時には被告席に立たされることもあった。
やはりそこで「いらん」と言われるのは、子供心にもえげつない経験なのである。
「いらん」
書いてみて改めて思う。残酷である。
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しかし、学校の友達とみんなで放課後も集まって遊ぶ、なんてことを僕もしてた時期があったのか、というのが、今回の記憶を掘り起こしての一番の驚きだ。
小学校4~5年生くらいまでは社交性とか普通にあったんだな。
何度か「いらん」宣告を受けて、その輪から自然に離れていったのかもしれない。
不快な記憶は忘れるに限る。
忘れないけどな。