私のアパルトマンはモンマルトルの麓にある。
Abbesses(アベス)とPigalle(ピガール)というメトロ12番線のふたつの駅のちょうど中間で、Abbessesは日本でも大ヒットしたジャン=ピエール・ジュネ監督の「アメリ」で彼女がはじめて運命の恋人、ニノ・カンカンポワに出逢う駅だ。
尤もAbbessesを利用することは少ない。
なぜかというと、モンマルトルは丘なので駅自体が既に高台にあり、地上に出るまでにとても長い螺旋階段を登らなくてはならないからだ。 エレベーターもあるが、そんな事情なのでいずれにせよ地上に着くまでに少し時間がかかる。
だからいつもはPigalleを使っている(ちなみにここにはムーラン・ルージュがあり、アメリが働いていたカフェがあり、ポルノショップが立ち並ぶ歓楽街でもあり、まるで歌舞伎町のよう)。 こう書くといかにも治安の悪そうな場所だが(最初は私も少し警戒していたのだけれど)パリというのは不思議な街で、通り1本違うだけでまるで別の空間が現れる。
この物件を紹介してくれた方はAbesses贔屓でパリに行く時は必ず立ち寄るのだ、と力説してくれた。確かに、と思う。
石畳の小路とか、階段とか、手書きのペイントが素敵なレストランとか、葡萄畑とか、メリーゴーランドとか、ユーモラスで優しい、昼間からシャンパンを振る舞ってしまうムッシューのいる画廊とか(私はここでMarko STUPARの素晴らしい画集を買った)、サクレクール寺院はいわずもがな、薬局も古着屋もコリニョンの八百屋もオートクチュールのアトリエも混在した、普段着のパリならきっとここ、という界隈。
この街には「Je t’aimeの壁」がある。
私は知らなかったのだけれど、世界中の国の言葉で「愛してる」と書かれていることでロマンティックな観光名所のひとつとして、訪れる人が絶えない。
もちろん そういう場所は日本にもたくさんある。
金網みたいなところに鍵(それも錠前)をつけるとか、愛の言葉を書いた紙を短冊折りにして結ぶとか、あるいはいっそ縁結びの神様のいる神社とか。
でも、と私は思う。それとこれとは全然違う、と。
たとえばこの壁にあなたも愛の言葉を書きなさいと言われれば、なんの抵抗もなく書けるだろう。
けれども日本でそれをしろと言われたら、気恥ずかしくてとてもできそうにない。
思うにそれは、違和感だ。 たぶん、愛の存在の仕方が違うのだ。
愛とひとことで言っても、ではそれはなんでしょうかと聞かれて説明できる人がいるとは思えないのだけれど、でもおそらくほぼ全ての人間が、愛というものの存在をなんらかの形で捉えているはずだ。
フランスに限らずヨーロッパにくると、恋人同士がその場所にすんなり馴染んで見えるのはどういう訳なのだろう。
そんな光景は世界中のどこで見ても大差はないはずで(どこの国にも人間というのは等しく男性と女性の2種類─特殊な性的嗜好や身体・及び精神的性差を除いて─しか存在しないのだから)、これはとても奇妙なことだと言わなくてはならない。
大切なことはだからその本質なんかではないのかもしれない、と思う。
正しい姿でそこに収まっているということ。
昔、友人に「孤独を知るあまり、孤独を知らない」と言われたことがあるが、言い得て妙だと今なら納得もする。
独りになりたくて独りで居るのと、独りになるしかないから独りで居るのとでは天と地ほどの差があり、かつての私は間違いなく前者だった。
人との関わりは、私にとっては簡単なことではない。
もちろん理由はある─非常に個人的な事情だ─し、それはおそらくこれから先もずっと私の中から消えないだろうと思う。
そのことを考えると、ときどきあまりの果てしなさに眩暈にも似た感覚を覚える。
一体どんな風に言葉を尽くして信頼を得ることができるのだろう─この考え方こそ姑息なのかもしれず、その可能性に行き当たってはしばしば逡巡する─と、まるで迷子のような心基なさを、でも私はずっと手放さずにいた。
手放せなかったのではないと、知っていた。
何故今フランスなのかと聞かれると、「昔から憧れていて」とか「フランス映画を良く観ていて、フランス語を勉強したかったから」とか「フランス音楽の響きを知りたかったから」とか言うのだけれど、どれも本当のようで、どれも的が外れているような気もする。
そんなことではない、もっと切迫した何かだった。
感情があるから言葉が生まれるのではなく、言葉があるから感情が生まれるという説があることを友人が教えてくれたので、すとんと納得した。
私にとってフランス語を勉強することは、おそらく生きるための手段のひとつなのだ。
ヨーロッパで彼らの関わり方に触れてその空気を知り、気持ちの芯が和らぐ気がするのは、直球にしか扱えない言葉を話す人たちだからだろうと思う。
私には、愛を誠意と言い換えても全く問題ないことだと思える。
ここに書かれているのはきっとそんな日常に存在するちっとも特別なんかではない、ずっと馴染みのある「愛の」言葉たちなのだと、私はしばしばこの壁を眺めに行き、思う。
優しさに満ちる気持ちがする。