日本のビートルズと称されたザ・フォーククルセダーズ。通称フォークル。
フォークルは1965年に京都で結成され、結成メンバーは加藤和彦、北山修という2人の天才と、はしだのりひこ(通称”のりちゃん”)の3人。
帰って来たヨッパライ、悲しくてやりきれない、青年は荒野をめざす、イムジン河など、その他多くの名曲、迷曲、珍曲(多くが作曲:加藤和彦、作詞:北山修)を残してわずか数年で解散。
私の母親曰く、ラジオで「帰って来たヨッパライ(テープ早回し)」が流れたときの衝撃はすさまじかったよう。
母親が家でよく流していたため、生活の身近なところでフォークルが流れていた。
私の中で、フォークソングとはフォークルのことであり京都のものであると、自然に入っていった。
そんな中でも当時、特に私の心に焼き付いたのは、はしだのりひこ(”のりちゃん”)の風という曲。
フォークルが1967年に解散する最後のライブで、既に”のりちゃん”のソロデビュー曲として披露して、加藤和彦が怒っていたという今となっては微笑ましいエピソードもある曲。
私の人生でおそらく最も聴いた曲。
フォークル解散後、
加藤和彦はソロ、サディスティックミカバンドなどで、時代を先取る作品を作り続け、これまた前衛的な安井かずみを伴侶に独自の世界を切り開き続ける。
北山修は精神科医としての道を歩み、九州大学の名誉教授になる。
“のりちゃん”はソロで幾つかのヒット曲を生んだ後、表舞台から姿を消し、奥さんの看病をしながら、何冊か主夫に関する本を書く。
2002年、フォークルは再結成する。
再結成のメンバーは加藤和彦、北山修、坂崎幸之助の3人で、『戦争と平和』という傑作アルバムを作る。
当時中学2年の反抗期真っ只中であった私は、海外のロックンロールに夢中で日本語の聴こえる音楽は一切聴かない謎のポリシーを貫いていたが、フォークルだけは例外で、誰にも咎められることもないのにこっそり聴いていた。
こちら、34年ぶりの再結成ライブの模様。御覧の通り、”のりちゃん”の姿はなかった。
当時は「何で坂崎幸之助がおるねん、そもそも京都でもないやんけ。”のりちゃん”もおらんのうに、こんなんフォークルやない」と思っていた。
その4年後、私は京都での大学生活を夢見て大学受験をするが落ちる。
浪人時代、大阪の予備校に1年通って、東京の大学へ行くことに。
上京する前にしておきたいことがあった。
私が小学校に上がる年に起こった阪神大震災の後、数か月の間、私の家族は岡山の祖父母の家に身を寄せていた。既に祖父母もその家を引き払っていたが、どうしても当時その家があった場所に行きたくなった。
あの田んぼに囲まれた中でフォークル聴いたら、もう何か泣けてくるやろうし、いや逆に笑けてくるかななど、妄想しながら神戸から姫路を通って岡山まで鈍行列車の旅。
MDプレーヤーにフォークルのMDだけ入れて、祖父母にも会わずに、ただただ田んぼでフォークルを聴き、夕暮れ時に神戸の家に帰る、今思えばとても贅沢な一人旅を慣行。
また、その数日後。同じ大学に受かって共に上京することになった友人とともに、小学校時代に通っていた個人塾に行き、塾長のN先生に挨拶をしにいった。大学で何のサークルに入るかという話になった際、「フォークルが好きなんで、フォークソングサークル入ろうと思うてます」と伝えると、そのN先生から「フォークルはかっこよかったなぁ。でもはしだのりひこだけは女々しいから、真似せん方がええんちゃうか」と言われる。
大学に入ってからというもの、フォークソングサークルに入ると言っておきながら、ブリティッシュロック研究会というサークルに入ってしまい、5月の学園祭でライブをして解散。その後、音楽とはまったく異なるサークルに入った。
忙しさにかまけてフォークソングをのんびり聴くことも無くなっていた。
そんなとき、母親から「加藤和彦自殺したらしいな」とメールが来た。
彼らしい最後と思った。
多くの作品を共作した身として、また精神科医として、北山修が何を発するか皆が注目したが、加藤和彦亡き後のコンサートを見ていると坂崎幸之助がいないと追悼コンサートは成り立たないことに気付いた。彼がいたからこそ、フォークルは再結成できたし、またそれが最後の最後の一昨年の”のりちゃん”の表舞台への復活にも繋がったんやなと思っている。
“のりちゃん”も数は少ないながらも、ときにテレビに出演し歌うこともあった。
1995年に久しぶりに人前に出た”のりちゃん”の雄姿がこちら。
その数年後だろうか。
新生フォークルのメンバーである坂崎幸之助と、元祖フォークル”のりちゃん”が一緒に演奏している、とても感慨深い映像。
最後の最後に、”のりちゃん”最後の歌声。
人前に出ることは最後だと”のりちゃん”自身も北山修も観客も思っていたであろう、一生を掛けた歌唱。こうした場を、ユーモア溢れる雰囲気に皆で作り上げているところが昔と変わらず、また微笑ましい。登場時の「私こそがアルフィーの坂崎幸之助です」という”のりちゃん”のユーモア。また、歌い上げた後の「二郎、声低すぎるわ」「のりちゃん、声高すぎるわ」というやり取り。
これが最後の歌声となったが、改めて思い返すと、フォークルの中で京都に残って生活し続けていたのは”のりちゃん”だけやったし、「たかがフォークソング、されど…」と思わせてくれたのはやはり”のりちゃん”やったと思った瞬間でした。
書きながら、2003年に発売された”のりちゃん”のミニアルバム持っていないことに気付き、急いで注文した。今週末にゆっくり聴く予定。