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3F/長期滞在者&more

山手と浜手

長期滞在者

先日香川県の地方都市に出張した。

高松から電車で1時間半ほどするそのエリアにはビジネスホテルが無く、民宿に泊まることにした。宿は寺院の裏手にあり、主にお遍路さんの際に利用される宿であった。その宿では、まるで1年分の疲れを洗い流せたかのような落ち着いた時間を過ごすことができた。

無事出張を終えた後、帰りに高松で一泊し、男木島で昼寝をし、夕方のフェリー便で実家の神戸まで帰った。

その後、神戸の実家で1週間ほどテレワークをした。

神戸は山と海が本当に近くにあり、北が山で南が海なので道に迷うことも少なくとてもシンプルな構造の街だ。山手側には落ち着いた邸宅が並び、一方海側は神戸製鋼をはじめとした多くの工場や酒蔵地帯があり、ワンカップを置いているような居酒屋が立ち並びガヤガヤした元気なお店が多い。

私はその中間で生まれ育ち、山や海も30分ほど走れば着く距離にあったが、それよりも川の方が近場にあったので、川への思い入れが強かった。

その川は自然味溢れる川では無く、どこを切り取っても人工物がフレームに入るような川だった。

中学の頃、この川を歩いているとおっちゃんに『えぇ踝してるな、写真撮らせてくれへんか?明日同じ時間に待ち合わせしよう』と言われ、興味本位で行ってみようとしたことがあった。

何か面白いことないかなと鬱屈としていた時期には、当時は当時なりに真剣に、普通に考えたら避けるような話にも何かを求めて食いついたりする。

小さい頃はほとんど意識することが無かったが、小学校の高学年になると、私の住んでいるエリアがとても憧れられる場所であることを感じるようになった。

私は公立の小学校に通っていたのだが、この小学校に入るためにわざわざ他の地域から引っ越してくる入ってくる家族も何人もいた。多少の喧嘩はあったものの、総じて平和で学びやすい環境の小学校だったように思う。

私が住んでいたのは阪神大震災後に入居した普通のマンションであったが、隣の駅が高級住宅街でもあることから、高級住宅地である隣町からのおこぼれで格式高そうなお店もいくつか存在していた。

その小学校の近く、家からも徒歩5分ほどの場所に高級スーパーがあった。家から最も近いスーパーだが、母親と買い物に出かける際もほとんど立ち寄ったことが無く、今もほとんど買い物を機会が無いが、このスーパーで販売されているものが気になり棚を眺めにいくことはあった。

神戸を離れて12年になるが、この街に住む顔ぶれもがらっと変わったように思う。久しぶりに帰省すると、新たにこの街に越してきた人達に対して、”こっちは小さい頃からこの街の変遷見てきたんだ”という少しいやらしい優越感を覚えながら歩くこともある。

地元の呑み屋さんに入っても、そこにいるおっちゃん達は昔のバカ話や現在の失敗談を語り”なんかうまいこといきまへんわ~”と言いながらも、失敗をネタにできるところにどこかで余裕がある感じがして、東京のとあるエリアでよく見られたような一縷の望みを酒に求めるようなタイプの呑み人をあまり見なかった。そこが、鬱屈した生活から抜け出したいともがいていた私には心の底からの親近感を持ちにくい部分であったのかもしれない。

帰省中の週末、朝5時に起きて、実家から六甲山の登山口まで30分近く歩く。登山口からは、買ったばかりのトレイルランニング用のシューズを履いて、走っていく。

1時間ほど走って実家に戻ろうと考えていたが、折角なので峠を越えて有馬温泉まで向かった。

山頂で水を買おうとしたら、汗で濡れた千円札が自販機で詰まってしまい、10分近く格闘して何とか取り出す。シェル系の服を持参しなかったため、山頂ではとにかく強風にあおられ寒さを感じ、すぐに有馬方面へ下って行った。

ちょうど9時前に有馬温泉の銀の湯に着き、朝から風呂に入る。時間が早かったせいか他にお客さんもおらず貸し切り状態であった。有馬温泉から実家に帰って、ほんの少しのつもりが4時間ほど昼寝をした後、六甲の南側にある商店街に久しぶりに向かった。

六甲山の麓であるからアウトドア用品を身に着けた人がとても多く、明らかに登山帰りと分かる人もいた。山が生活圏の一部になっており、身に着けるものも自然とアウトドア用品が多くなっているようだ。こうした少し余裕があるように思える人達の中に身を置いていると、少し自分も軽やかな気分になり、帰省したときにはついついこの商店街に寄りたくなる。

山手と浜手の絶妙な距離感がこの心地よさを生んでいる。何かに挟まれることの安心感を覚えた。

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