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3F/長期滞在者&more

殺してしまおう

長期滞在者

本を読むとき、それが旅をテーマとする小説であれば、家の中で読むよりも移動しながら読みたくなる。そして、出来ることならば、小説の舞台に可能な限り近い場所で読みたい。

茨城県を舞台とする小説を読むために、普段ほぼ使うことのない常磐線に乗り込んで読み進めていった。時々車窓を眺めながら、心温まる小説の世界にどっぷり浸かった幸せな状態でページを捲っていると、残り数ページのところで突然大きな喪失が訪れる。

この突然の喪失に、普段感じることのないとてつもなく大きな暴力性を私は感じた。

受け手に何かを残そうとすることが文化の大きな役割であり表現者の本望だと思うので、その視点に立つと、フィクションの中で現れる暴力性はとても有効に働くと思われる。

この小説を読みながら私は、おとぎの国にいるようなポップソングが連なる中で突然「殺してしまおう」というメッセージ性の強い曲が入ってくる五つの赤い風船を思い浮かべた。

一方、現実の世界での暴力性はどうか。

私は人生で暴力を振われた経験はほんの数回しかなく、自分と相手双方が暴力を振うことを了承している場面(=喧嘩)を除けば一度しかない。

それは私が中学2年のときであった。MDウォークマンを耳に装着して自転車でJR住吉駅にあるシーアという商業施設に自転車を停めたときであった。数分前にすれ違い反対方向に向かっていたはずの坊主頭の学生が引き返してきて、私の方に向かってきた。と、いきなり私のウォークマンを耳から剝ぎ取り、「何を睨んでんねん?」と凄まれた。「え、何もしてへんのにいきなりなんなんやろう。あぁ、そういえば今日コンタクトしてないから、目を細めて眺めていたのが睨んでると勘違いされたんかな」と思い、それを伝えようとした矢先に鼻に頭突きを喰らった。突然の出来事に手の力が抜け、自転車も倒れた。駅と直結した人通りの多い場所で、通行人も多く「学生同士の喧嘩かいな。やられた方は可哀そうやな」と少し哀れな目線を周囲から感じる。倒れた自転車を起こして駐輪場に停めて、商業施設の中に入った。鼻が潰れるような衝撃を受けた自分の顔がどんな風であるかを確認しにトイレに向かったが、いつもと何ひとつ変わらぬ顔であった。せっかくなら血の一滴でも流れて欲しかったとその時思った。

その後、ハードコアパンクという音楽にのめり込む中で再び暴力性を意識した。肉体と切り離すことが出来ない音楽性を持つハードコアパンクのライブにおいて暴力行為は隣合わせ。空気の薄い地下のライブハウスで当たり前のように体に痣ができる。物差しとして衝撃度を示すG値を基準としたら、中学2年のときに受けた頭突きの値よりも遥かに高いG値を1回のライブで何度も身体に受けることになる。ただ、そこに真の暴力性を感じることはなく、ある種”大人の運動会”のように感じていた。

ただ、こうした安全圏の中でもいきなり暴力が顔を出す瞬間がある。例えば、勢い余ったバンドメンバーがステージからマイクスタンドをぶん投げて、客の脳天に直撃して出血した場合。仮にその客がよくライブに足を運びバンドとも親しい仲であれば、両者間ですぐに解決し、もしかすると次のライブの際にはその傷も酒のネタになるかもしれない。実際、そのくらい狭くて濃厚なコミュニティが出来ている。一方、ハードコアのライブに足を運ぶのが初めてで”大人の運動会”という共通認識を持たぬまま被害にあった場合は、とてつもない暴力行為に遭遇したと認識するであろう。この時は、弁解の余地などまったくなく、マイクスタンドをぶん投げたバンド側に100%非があるだろう。

多くが反戦/反暴力を掲げるハードコアパンクのライブにおいて、”暴力的だが暴力性を感じない”体のぶつかりを音圧と共に喰らう皮肉性も含めて、この音楽ジャンルはかけがえのない文化に昇華されている。もし、こうしたライブの中で参加者が暴力性を感じるとしたらそれはただの悲劇となる。そして悲劇が続くと、文化はあっという間に崩れ落ちるであろう。

何も覚悟を持っていない中で、理不尽にも、突然(権力を含む)力を振りかざされることが、人が”暴力”と捉える上で、大きな部分を占めるのではないかと思う。

暴力的な描写がページを捲るごとに描かれる中上健次の小説に真の暴力性を感じず、冒頭で取り上げた茨城での旅を舞台とするほがらかなムードの小説の方に強い暴力性を感じるのも上の要因ではないかと思う。血の描写が一つも無い小説であるからこそ、読者が警戒を解いている中で突然暴力が登場するところにとてつもなく大きな力を感じる。

暴力性を作品に込めることができるのはフィクションの特権であるが、現実世界においても暴力を自分とは別世界のものとして遠ざけておくのではなく、少しでも自分事として捉えて自分自身の見解を持つ必要があると、このコロナ禍においてより強く感じる。

冒頭の小説に戻ってみる。先述の通り、起こり得る中で最大の暴力性が結末に現れることに衝撃を覚えたものの、作品を読み終わった後で嫌悪感は覚えなかった。むしろ時間をおくと、著者の覚悟と決断に共感する気持ちが強くなってきた。それは、この暴力性を結末に置くために、直接触れることは決してないものの、小説全体にほんの数パーセントの翳りを醸し出させることに成功しているためだ。フィクションの中で真の暴力性を作り出すには、覚悟と類まれな技術が必要となる。

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