最近ジムに通い始めた。
筋肉を動かすことでアドレナリンが身体に拡がって脳に届くのを感じる。
自然と食生活にも影響が出て、ビールも週に数回しか飲まなくなった。
身体が肉を付けていくのは心地よくも感じるが、一方で、服から筋肉が盛り上がって見えるような姿は目指していないので、トレーニングの負荷を上げていっても肉があまりつかなければとも思う。
本当は定期的に泳ぎたかったのだが、結局プールも付いていない近所の小さなジムに入ることにしたのは、外から見てもいつもそのジムはガラガラだったことと比較的安かったから。そして、最近なぜか怒りを覚えることが増え、重い負荷を掛けて怒りを一目散に鎮めたかったからだ。
社会人になって10年近くになり、怒りを覚えることはほとんど無くなった。怒りを覚えることがあるとすれば、それはほとんどが自分に対してだった。
20歳まではよく自分以外に対しても怒りを覚えていた。
それは大抵の場合、大きすぎる相手だったり、もはや人でもなく時代の空気感に対してだったり。
学生時代に一度だけデモにも参加した。今でもその法案が適切な議論も無く可決されたことに疑問を感じているが、当時抱いていた怒りは今ではほとんど消え失せている。
学生の頃や会社を休職していた頃は、会社に守られて、社会に対して何も声を挙げない大人に訳もなく反感を覚えていた。
いざ、社会の中で働いていると、仕事に精を出して、休みの日はゆっくり過ごし趣味に時間とお金を費やす生活を過ごす人たちに対して何の怒りの感情も覚えない。実際、自分もそういう生活を送っている。
調子に乗っている人たちに対しても怒りを覚えることはない。人生の中で弾けるような時期があってもそれは別にいいことだと思う。私も学生時代に理由も無く無敵さを感じて、周りを気にせず無茶苦茶な遊び方をしてしまっていた時期もある。
一般的に、怒りの感情が年を追う毎にどんどん減っていくのは単に感受性が鈍ってくるからなのか、日々の生活に安定が、家族が、ペットが、余暇が、自然が入ってきて怒りを溶かすからなのか、アルコールやサウナやジムが怒りを蹴散らすからなのか。それだけでなく、社会に出ると、自分のやるべきことをコツコツと真摯にやり続ける人たちと接する機会が増えてくるからかもしれない。
若い時は、そうした人たちの姿を見る機会も限られ、ただ声を挙げるか、怒りの手段として力に頼りがちだが、怒りに対して黙々とやるべきことをやる人たちの姿を見ると、構え方が変わる。それは、怒りを放棄するように捉えられるかもしれないが、怒りを瞬間的に表面化することはせず、自分のやるべきことの中に長く浸透させていくような。
社会に出てからは、日常で互いの怒りについて話す場はそもそもなく、また怒りが滲み出た危うさを持った(Downward Spiral期のトレント・レズナーのような)人は仕事の時間に会うことはほとんど無い。
第一、仕事をする上で、多くの場合が他者と協力して進めなければならない。それが大きくなればなるほど、自社のメンバーだけでなく他社も巻き込んで幅広い人間関係を構築する必要がある。
その際、それぞれの中で事業に対する動機は異なるだろうが、チームとして動く場合には最低限の調和が求められる。「調和が最も優先され社会を覆いつくすと、人間の意識は不要となる」というテーマで書かれた小説を最近読んだばかりなので調和が全ての局面で望ましいとは思わないが。
一方で、仕事の中で怒りが原動力になって動いている案件は10年間で一度も見たことが無かった。
理不尽な現実に対してその解決を目指すことはよくある話だが、理不尽な現実の原因を探りそこに怒りを覚えるのでなく、その理不尽な現実はそのまま”解決すべき課題”となり、その課題に対して、どういう解決策を採れるか、どういう技術を活用するか議論が進んでいくため、怒りに焦点が当たることは無い。
最近、怒りの感情を覚えるのは、なぜなのだろう。その怒りの矛先の1つに自分自身であるのも間違いないが、それだけでも無いように思える。
怒りを持つべき対象は、真摯に取り組んでいる人たちを邪魔する人たちなのか。