街でバレー教室に向かう子どもを見掛けると、背筋が伸びる。
自分より四半世紀も後に生まれたはずなのに、規律を守る力強さが感じられるような、バレリーナを目指して練習を積み重ねることが出来る強さが感じられるというか。
今年も無事に毎月欠かさず連載を続けられてとても誇らしい。
三日坊主の典型のような性格にも関わらず、これまでずっと続けられているのは、毎月公開日が24日であることも関係している気がする。もし毎月1日や15日だと途中で諦めてしまっていたかとしれない。
研ぎ澄まされた文章を書くのは諦めている(はなはな目指していない)が、書き続けてきた総量がそのまま何かの重みに繋がるのではないかといまだに本気で思う。

今年を振り返ると、いつものことながらよく歩いた。
それはある意味、とても健康的なことだと思う。
街を歩いていると、多くの街は、もう自分の何周か後ろの世代の街になっていると感じる。
そして降りたことないの駅に降りてみてもどこか既視感を感じ、初めて降り立つ新鮮な気持ちが沸かなくなってくる。
そんな状態でもまだまだ色々歩くのか、もうふらふら歩くのをやめるのか試されている気がする。(誰に?)
とある週末、団地を見に行こうと、23区の外れの街に行った。
駅を降りても駅前広場のようなものは無く、少し歩くと塀に囲まれた通りが出てきた。
それはとても巨大な留置所で、隣にはこれまた巨大な団地が並んでいた。
団地から留置所の塀まではほんの直ぐの距離にあり、なかなか見ないような光景だった。
そのすぐ近くにセブンイレブンがあった。
特殊な立地条件のコンビニには何か特別な物が売ってるんだろうかと店内を覗いたが、特に珍しいものはなく、心なしか封筒や便箋が豊富にあった気がした。
その日、その2つ隣の駅ではレンタカーを暴走させた轢き逃げ事件が発生し、ヘリコプターが何機も上空を飛んでいた。

師走に入り、忘年会と称し、久しぶりのメンバーと新宿三丁目に集まった。すっかり冬な気温だったが、外席で中華を食べた。
そのうちの1人が「アノニマスになりたい」と言っていて、それは冗談では無く本気の口ぶりだった。
とても大きな国際企業に勤めている友達だが、地位もお金も得ると、街なんかでなくサイバー空間が興味の対象になるのだろうか。
平等に分け与えられているのは時間だけなんじゃないかと思い、そう考えるとコーヒー、タバコ、お酒といった嗜好品は、時間を切り離して、まったく異なる「一服」の時間を与えてくれるので、とてもとても貴重なものではないかと思ったが、愛飲家、愛煙家の言い訳のようにも聞こえる。

年末年始は毎年本を読むことが楽しみで、読む以前に実家にどんな本を持って行こうか考えるところから心が躍る。
今年は年末年始にしか読めないような800ページ計88万字のまるで鈍器のような厚さの小説を読む予定でいた。が、先日数ページだけ読み始めると止まらなくなってしまい、結果的に半分ほど読んでしまった。
なので、実家には新たに別の本を持ち帰る予定だ。
もし読む時間が無いくらい予定が入れば、それはそれでよい年末年始だ。
