数年ぶりの引越しがもう数日後に控えているのに、わたしは心の準備がろくにできないままでいる。引越しはたくさんしてきた方だと思うし、わりと慣れっこのはずなんだけれど、今回はあまりにも実感が湧かなすぎて、変な感じがしている。数日後には、数年ぶりの東京。目が覚めたら、もう比叡山が視界に見えないのかとか、電車の車窓から琵琶湖が見えないのかとか、感傷的にはなりたくないのに少し気持ちがしゅんとしてしまう。後ろ髪引かれるってこういうことなんだろう。住み慣れた街を離れるのはいつだって寂しい。とくに、思い入れがあればあるだけ寂しさもひとしおで。
この引越し準備の間、昔のノートをぺらぺらとめくる機会があって、そこに書かれていたことにどきりとする瞬間が多々あった。大学時代の脆くて、移ろいやすいひとりの人間の揺らぎが手に取るようにわかる、怖い怖いメモたち。両親に対する歪んだ気持ち、恨みになりきらない黒い塊、自分自身に対する問いかけ、胸の内にある複雑でわかりにくくて、簡単には真っ直ぐにしわを伸ばすのが難しい言葉の数々。あのときの自分の中にあった、様々な毒がノートを埋め尽くしていて、その言葉を読んで鳥肌がたつのに、なんだかもう大昔のことで、他人のことのような気さえしてしまう。そう、自分はこの数年の間、随分遠くまで歩いてきたんだなって、数年前に書いた言葉でそのことに気づく。
幸い、わたしはもう、あのノートの言葉を書き連ねたときのわたしではなくなったと思う。同じ人間の過去と未来。それが成長なのか、成熟なのかよくわからないけれど、当時抱いていた気持ちは、大分薄れているし、もっと自由な気持ちでいる気がしている。自分を縛っていた規範も、常識も、今の自分にはもう関係のないものになっている。両親を恨みたい気持ちや、責めたい気持ちも、もうこれっぽっちもない。彼らは彼らなりにできたことをやってきたと、当時とは違うレベルで、いろんなことを理解できるようになったからわかる。もちろん、メモを書いたときのわたしだって、恨みきれないから悩んでいたわけだし、父や母の頑張りを知っていながら、でもどこかでまだ「なんで?」って思っていただけのこと。あと少しのところまできていたんだよね。今はもう受け入れています、全部まるまるっと。
わたしは、どう転んでもわたし自身。ようやく、ひとりの確立した人間としてスタート地点に立てたのかなぁと、ぼんやり思う。以前、恩師に「ようやく人間らしくなってきたねぇ」と言われたことがあったけれど、わたしも今そう思っている。今のわたしは、ひとりの確立した人間で、図々しさも、繊細さも、弱さも強さも兼ね備えた、面倒臭くて、可愛い人間です。自分の嫌いなところも、「まぁいいか」と思えるようになって、自分の良いところも「まぁ、そんなもんでしょう」と思えるようになって、自分の形を今まで以上にちゃんと理解できるようになった。そんなわたしの、再スタート。わたしだけじゃなく、大事な人と一緒の再スタート。わたしたちがそれぞれ確立した大人として生きて行くこれからです。