二十年以上前の話、二十四、五歳頃のこと。必要があって初めてカメラを買うことになり、当時働いていた中津カンテGのK氏に相談した。K氏はその当時からカンテのメニューや広報物のデザインワークを担当していた人で、写真やカメラのことも詳しかった。
どういうカメラを買ったらいいかまったくわからないド素人の僕にK氏は一から懇切丁寧に教えてくれたのだが、当時僕は「一眼レフ」という言葉すら、聞いたことはあってもどういうものかよくわからない。なぜ普通のコンパクトカメラの何倍もする値段で、何倍もする重さのものをみんな使うのか。
「用途に合わせてレンズ交換ができる」
それはわかる。
「明るいレンズを使えばボケがきれい」
・・・そういわれても、全然わからないのである。「ボケがきれい」とは何か?
ピントが合う、という概念はわかる。なぜなら世の中にはピントの合った写真とピンボケの写真があるからだ。
しかし「ボケがきれい」とは、いったいどういう意味なのか? いや、冗談ではなく、本当にわからなかった。
写真のピントに関しては、「ピント合わせ」に成功した写真か、失敗した写真か、この二つしか思い当たらないのである。
不思議な顔をする僕にK氏はまずピントの深度ということから説明してくれる。
「ピントは合っている、合っていないのどちらかしかないわけではない。
ピントには厚みがある。そのピントの厚みから外れた部分は次第にゆっくりボケていく」
そういわれて改めてK氏の撮ったメニュー写真を見る。チャイの入ったグラスにはピントが合っているが、背景がなだらかにボケていて美しい。
「ボケがきれい」
という言葉が、今度は素直に頭の中に降ってきた。
僕はこのときはじめて写真における焦点の仕組みというものを知ったのだが、同時にもっとすごいことも理解したのだ。今にして思えば。
「人間は言語化しないものを認識できない」
もっというならば
「認識とは言語化するという意味なのだ」
ということを。
いかにそれまで貧しい映像体験しかなかったか、ということでもあるのだが、「ボケ」(ピンボケではなく)という現象を言葉としてちゃんと脳内に落としたのが、このときはじめてだった。この言葉を脳内にセットする以前は、K氏が撮ったチャイの写真を見ても「背景がボケている」ということすら見えなかった。
たぶん本当に見えなかったんだと思う。
言語化できていない事象を人間は認識できない。人の目はそれを見ようとしない。
とある事象を言語化すると、見えるものまで変わっていく。大げさでも何でもなく、世界の見え方が変わる。
言葉というのはすごいものだ。便利で、そして時にやっかいなものだ。
・・・・・・
言葉がやっかいだ、というのは、特に最近痛切に思うことである。
言葉の意味は辞書にでも書いてあるが、それぞれの言葉が各人の認識装置の中に落ちていく、その落ち方は各人各様さまざまだ。
とある事物にはもちろん幅や奥行きというものがある。形あるモノのことだけを言っているのではない。言語そのものもそうだし、たとえば「愛」とか「正義」とか「国」とかいうような概念もそうだ。
言葉というのは振り幅を持つものであるから、本来どんな言葉も多義的だし多面的だし、まさにさっきのピントの話のように厚みや奥行きや境界の曖昧さもあわせ持つ。そういう曖昧さも含めた振り幅で語られなければならないのに、その言葉の持つ強度のせいで、その振り幅が押しつぶされてしまうこともある。一見わかりやすい言葉ほど陥る罠である。
そういう語り口に油断してはいけないし、僕らもそういう口調で語ってはいけない。わかりやすい言葉なんて全部嘘だから。いまだかつて世界がそう一筋縄であったことなんか、ただの一度もないはずだ。