ぼくの父方の祖父は、その当時は教師だった
そして母方の祖父は、その当時は銀行員だった
どちらも戦争には行っていない
昭和20年、父5歳、母2歳
父の住む町は、京都に近いこともあり
B29が飛び交う空を見上げることはあっても、空襲にあったことはなかった
母の住む町は長崎にあって
軍事工場が多いので危ないという噂から、佐賀県に疎開したのだという
父の住む家は、畑もあったし田んぼもあったし
庭にはポポーや柿の木があって、食べるものはあの時代にしてはあるほうだったのかも
母の住んでいた家は、爆心地にとても近く
あのままあそこに居たら、今は生きてはいない
父の子供頃の集合写真を見せてもらったら
戦後間もなくだけど、みんな思ったよりぷくぷくした印象で
母の記憶は戦後間もなくからで
歳の離れた兄姉は、多感な時期を戦争一色で過ごしている
父はあの頃のことを、辛かった、とは言わない
芋煮を見ては「懐かしいなぁ」と目を細めている
母はあの頃のことを、「想い出したくはない」と言う
記憶のある戦後は、親戚は原爆で亡くなり、長姉は親戚を捜しに長崎に入ったりしていた
まるで両極な二人
同じ時代を生きたというのに、こんなにも違うものなんだ、と思う
ぼくは父の生まれた家に生まれ
その頃にはあの家は既に、築100年ほど経っていて
五右衛門風呂があって、火鉢には炭が入っていて
薪作りしたり、夏は蚊帳を張ったし、冬は豆炭行火を抱いて眠った
毎朝、板の間全ての拭き掃除と表裏玄関の掃き掃除してから、小学校に通い
当時の同級生とはほど遠い生活環境だった、今になって思う
戦時中の匂いの残るその家で
ぼくはその意味もわからずに、ただ不便だと思っていたけれど
いまとなって、昭和初期の断片を生活として経験していたことを
その頃のことを知らない世代なのだけど、少しだけその匂いを知っている感覚に陥ることがある
明治生まれで、とてもとても厳しく頑固者だった
祖父のおかげかな、とも思う
古くは比叡山焼き討ちで、ぼくらの先祖はこの世からいなくなっていた筈だけど
こっそり逃がしてくれた武将のおかげで、ぼくは此処に居る
今は痕跡すらなく、石碑のみの城跡
そこは琵琶湖に面していて、いつも静かで穏やかで
この湖岸も街も人も
時が繋がってここにある
何かひとつが違っていたら、ここにいなかったかもしれないぼくらが
こうして、此処に立っている不思議