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2F/当番ノート

のび太の夏休み

当番ノート 第1期

あの夏がなかったら、僕はダメなオトナになっていた。
あの「熱い」夏休みが、もし、なかったら。

人生の中での分岐点っていうのがあって、きっと誰にでもあって、
そう、ターニングポイントっていうやつ。

僕の場合、そのターニングポイントの最初で最大のものは小学校4年生の時に訪れた。

のび太みたいな子供だった。成績は中の下、リコーダーもドッヂボールもダメ。図工だってへたくそだった。
1年生からずーっとダメな子。

4年生になって、担任が上田先生になった。上田先生は転任して来た背の高いおばあちゃん先生。

「けいちゃんは何が得意?」いつもそんな風に聞いてくれたっけ。
人見知りの僕は大した返事はしなかったと思う。

のび太だから、メロディオンは次の課題曲にドンドン遅れ、プールは息継ぎが出来ないまま。
夏休みの前、授業に追いつけない僕は母親と一緒に学校に呼ばれた。
「けいちゃんは優しいいい子。だけど、この夏休みに頑張れたらもっと凄いと思う。」

ーーーここが、この夏休みが僕のターニングポイントだったんだ。ーーー

夏休みの初日から毎日父親はいつより早く帰って来て、マラソンの練習がはじまった。
父はストップウォッチ片手に自転車を漕ぎ、僕はその隣を毎日走った。雨の日も走った。
ロッキーみたいに。
日曜日には市営プールに行って、息継ぎの練習からスタートした。
勉強は母と姉が担当し、メロディオンは隣の家の高校生のいずみちゃんの担当。
最初のページの一曲目から練習がスタートした。

夜のマラソンは毎日少しづつだけど、確実にタイムは縮んで行き、メロディオンは何曲か間違わずに吹けるようになった。

夏休みが終わろうとしていたある日、はじめて50mを足を着かずに泳ごうと市営プールの壁を蹴った。
不格好だけど、その頃にはなんとか息継ぎが出来るようになっていたのだ。
最後の10mくらいの所でカランカランとプールから全員出るようにと鐘が響いた。
プールの安全のため、みんな一旦休憩するようにっていう鐘。
仕方なく泳ぐのを止めようとした時、父の大きな声が聞こえた。

「このまま泳がせて下さい!お願いします!この子は今日はじめて50mに挑戦してるんです!」

僕は思いっきりバタアシを蹴り、プールの向こう側の壁をタッチした。
みんな水から上がったプールから顔を上げると、係員に頭を下げている父の姿と、知らないみんなの大きな拍手で
太陽と水しぶきが眩しかった。

そんな風にして決死の夏休みは終わった。

ドリルは全ページ完成。メロディオンは全曲完璧に吹けるようになり、50m泳げるようになり、
マラソンは目標のタイムに近づいていた。

学校がはじまると上田先生は賞状を5枚用意してくれてあった。ホームルームで表彰式までやってくれた。
ドリルが終わったで賞、メロディオン出来たで賞、泳げるようになったで賞、マラソン速くなった賞。
そして、みんなに感謝しま賞。

努力すればその分だけ結果に繋がるという事を分からせる、上田先生と両親との壮大なプロジェクトだったんだと思う。今思えば。

その秋、前回ビリから二番目の197位だった僕はマラソン大会で優勝した。

あの暑い、熱い夏休みがなかったら、僕はきっとあのままダラダラとなにもなし得ないオトナになっていただろう。
みんなが協力してくれたあのプロジェクトがなかったら。

「けいちゃん応援プロジェクト」の発起人の上田先生とプロジェクトリーダーの父は今はもういない。

今でも、辛かったり、頑張らなければならない局面の時には、賞状を渡してくれた皺だらけの手と、
まだ若かったであろう父の自転車の後ろ姿を時々思い出す。

無償の愛をたくさんたくさんありがとうございました。ちゃんと皆に繋いで行きますね。

                    ***

今日で僕のコラムは終わりです。つたない文章にお付き合いいただきありがとうございました。

杉山 圭

杉山 圭

UNITED DESIGN,INC.
クリエイティブディレクター

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