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2F/当番ノート

噂だらけ謎だらけ

当番ノート 第1期

このアパートメントの名前は何だったっけ。

たぶん、名前なんてどうでも良かったし、実際名前は必要とされていない。
僕の中での「名前」の優先順位はいつだって低いのだ。
この古い洋館みたいなアパートメントに引越してから今日でちょうど一週間が経つ。

一階には管理人のショートカットのちょっと美人の踊り子が小鳥と暮らしている。
いい響きでしょ、ことりとくらすおどりこ。
踊り子さんはいつも肩にヒヨドリを乗せて庭でパセリやトマトの手入れをしているけど、
ヒヨドリは遠くへ飛んでいったりしないからきっと巣から落ちたヒナの親代わりをしているのだろう。
「踊り子」というのは、近所の人たちがそう呼んでいて
本業なのかニックネームなのかストリッパーなのか劇団の人なのか実体は知らない。
はるえさんと呼ばれているもう一人の管理人さんは電話でひと言挨拶したけどまだ姿は見ていない。
遠くにいてここには住んでいないみたいだけど、何かの時は赤ワインを持っていくといいと誰かが言っていた。

いつもトンカチやらネジやらが入った革の袋を腰からぶら下げながらアパートメントの修理をしているのが良太くん。
良太くんにはひょんな事から週に一度ギターを教えてもらうことになった。
ジャンゴ・ラインハルトととか、ジョー・パスとかそういうの。
良太君は長い髪を束ねて、ジプシーみたいに自分で作った巻きたばこをくわえて早口でフレーズを教えてくれる。
これまた教えるのも早いもんだからちっとも身に付かないし、
最後にはふたりとも酔っぱらってギターどころではない。

僕の部屋の左隣は小さなイタリア料理店をやっているというご夫婦が暮らしていて
毎日朝早くからニンニクのいい香りがする。きっとパスタソースかなにかの仕込みでもしているのだろう。
嫌でもイタリア料理は毎日作っているのだから、たまには干物の焼いた香りも恋しくならないかなぁ
などと勝手に想像しながらニンニクを炒めた香りを目覚まし代わりにさせてもらっている。

右隣は「レコロ」という表札でたぶん外国人。長い事住んでいるらしいけど物音ひとつ聞こえた事がない。
きっと中近東辺りにでも帰っているのかも知れないと勝手に想像している。

昨夜は「屋根裏」でイワオくんとちょっと飲んだ。屋根裏っていうのは、米軍払い下げの巨大な革のソファーと
アパートメントになる前の洋館時代から置いていったという
もうずっと調律されていないであろう茶色い木目のアップライトピアノが置いてある共用のラウンジ。
薪ストーブを囲んでサッカーを見たり編み物をしたりみんな帰って来ると何となく集まってくる。
一階にあるから屋根裏ではないのだけれど、なぜかそこだけ天井が少し低くて古い木の梁と柱が何本かあるから
みんな屋根裏とか山小屋と呼んでいる。
昔は倉庫として使っていた部屋のようだけど確かにそんな雰囲気なのだ。
イワオくんはここに越して来てから最初に知り合った住人で、ずっといるのか、僕みたいに短期借しなのかは
分からないけど、コム・デ・ギャルソンが好きなお洒落さんで給料の殆どは洋服に使ってしまうと笑っていた。
普通のサラリーマンですよぉと言っていたけどそうは見えないお洒落さなので、密かにイワオ・ギャルソンと名付けた。
センチメンタルなイワオ・ギャルソン。

                      ***

僕がこの古いアパートメントを気に入ったのは、線路側に大きなシイノキがあるからだった。
シイノキの下でここの住民とおぼしき人たちがギターやチェロやバイオリンを弾きながら
異国情緒たっぷりに大きな鍋を囲み踊ったり歌ったりしている楽しげな姿が時々電車から見えたからだった。

シイノキってすぐ分かったのはおばあちゃんちの庭に大きなシイノキがあったから。
おばあちゃんはアメリカ映画みたいに太い枝にロープを結んでブランコを作ってくれたけど2回漕いで枝が折れた。
その時に出来た傷が今でもおでこにちょっと残っている。
おばあちゃんは僕が小学校四年生の冬休みに亡くなってしまった。母はもう時効だね、なんていうけど
僕はちっとも恨んでなんかいないし、逆に懐かしいような、切ないような、
おばあちゃんの洋服に染み込んだ外国煙草の香りを思い出すじんわりとした出来事。
だからシイノキにはちょっとウルサイのだ。とくに枝振りにはね。ここのは枝振りがすこぶる良い。合格。

ふらっと立ち寄った一週間後に引っ越してくることになって、先週まで電車から眺めていたシイノキは
今では僕の部屋の窓を開ければ葉っぱが手が届くところにある。
人生の風向きなんてちょっとしたきっかけでコロコロ変わるのである。

そして。最初に言ったけど、不思議なのはここへの手紙は「アパートメント」とだけ書けばちゃんと届く。宅急便も。
あと、
管理費はコーヒー代とかランチ代と呼ばれていて、払える時に払えるだけでいいという事。
戦時中に作られた石積みの地下室があってマッシュルームの栽培所だかワインセラーになっているらしいって事。
オーナーはチェコ人で売れない俳優だったけど貿易商で成功して今では大金持ちなんだという噂。

へんなの。噂だらけ謎だらけの不思議の国のアパートメント。ひょっこり僕もここの住民となった。

さてさて。

              

杉山 圭

杉山 圭

UNITED DESIGN,INC.
クリエイティブディレクター

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