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3F/長期滞在者&more

豆はどこへと消えたのか

長期滞在者

ふと、街頭でナンパされたことがほとんどないな、と思い至った。

「どこそこで希望ちゃんを見かけたが、声をかける前に姿を見失ってしまった」と友人知人から申告される程度に私は歩みが早く、なおかつ考えごとをしながら歩いていることが多く、険しい表情をしょっちゅう浮かべているという指摘を受けることが無関係ではなかろう。もちろん、とっつきにくい容姿であることなど、理由はほかにもあると考えられる。

(ナンパに関しては、しつこく付きまとわれたり、暴言を吐かれるなどの被害についても耳にするが、ここではナンパそのものの是非を一旦横に置く)

「ほとんど」ということは皆無ではないのか、と問われたら、「ナンパとカウントして良いものか判断しかねる経験がいくつかあった」と私は返答する。いずれも私が20代、東京で暮らしていたときの話になる。これから記すそのうちのひとつのできごとは、とあるデパートの地下食料品売り場で起こった。

自宅近辺で見つけられず、都心のデパートならば扱っているのではないかと踏み、めぼしい店を巡っていたのだが、私が探している食材はこの店にもない。棚を眺めて肩を落とすのは、もう何軒目だろうか。いい加減諦めて別のもので代用するか、それとも少し離れた専門店を訪ねるべきか……そうだ、最初からそうすれば良かったのに、中途半端に時間をケチったばっかりに――などと考えながら場を離れようとした私は、こちらに向かってきた誰かと衝突しそうになった。

「すみません……」

会釈をしながら右へと身をかわしたところ、先方も同じ方向に移動した。慌てて私が左に避けると、あちらもまた同じ側へと移動する。あるある、こういうふうに、お互い気を利かせたつもりが逆効果になっちゃうこと。また動きが被ってしまうことを懸念した私が、きびすを返し180度反対方向へと歩み始めるやいなや、

「私はカナダ出身のエディーと申します! 父はザイール出身、母はスペイン出身です!!」

と、いわゆるデパ地下にふさわしいとは思えない声量の自己紹介が背後から聞こえてくるではないか。思わぬ大声に足止めを食らった私が恐る恐る振り向くと、身長は190cmをゆうに超えているであろうスーツ姿、体格の良い男性が微笑んでいる。まさかと思ったが、先ほどの自己紹介が私に向けられていたと悟った。

エディーと名乗る男性は、驚く私へと歩み寄りながら

「安心してください、私は怪しい人間ではありませんよ。さっき自己紹介したじゃないですか」

などとおっしゃるが、あんなふうに名乗られたところで安心できようものか。いや、あの自己紹介があったからこそ私は身構えているというのに。

とはいえ、怪しいものではないとどうにかして伝えてまで、私に聞きたい大切なことがあるのでは? なんて問われたら、45歳現在の私は「ないないないない! そんなことあるわけない!」と即答するのだが、約20年前の私はもの知らずかつお人好しだった。「そうだ、私に何か聞きたいことがあるのかもしれない」などと気を取り直し、「どうかなさいました?」と問いかけてしまったのだ。

エディー氏は安心したように微笑み、さらにこちらへ二歩、三歩と進んだ。

「お名前は?」

「ノゾミです」

「マサミさん?」

安易に本名を名乗るべき状況ではなかったことを鑑みると、訂正する必要はなかった。しかし、冗談のようなタイミングでエディー氏が呼び名を間違うもので、「ノゾミです」とつい、突っ込んでしまった。

「失礼、ノゾミさん。私は都内の学校で外国語の講師をしています。今は休憩時間で、こちらに来ました」

勤務先である大学か専門学校のIDだろうか、カードのようなものをこちらに差し出した。どうにかして、自分は怪しい人間ではないと証明したいらしい。

「すると、ノゾミさんがずいぶんと真剣な表情で……あー、何を探していたのですか? ここにはたくさんの豆が並んでいますが……」

「豆です」

「そうですか、豆。豆を探していましたね。私はあなたが豆を探す真剣な表情を見つけました。そして……」

何かの勧誘だろうか。だとしたらきっぱり断らねば――今の私であれば、そう疑うよりも面倒さが先だって、話の途中で立ち去るだろうに、真面目に受け答えをする当時の私の何とお人好しなことか。

「あなたと豆の話をしたいと思いました」

予想外の言葉を受け、思わず私は聞き返した。

「豆ですか?」

「はい、豆です」

ちょっと、いや、だいぶ意味が分からないのだが、とにかく怪しい。「結構です」と背を向けた私の肩を、エディー氏が「待ってください、カズミさん!」と掴む。無視すればいいのに、どうして私は「ノゾミです」と訂正してしまうのか。

「ノゾミさん、私はあなたに何かを売るなど、そうしたことを考えているのではありません。ただ、あなたと豆の話をしたいのです」

「いや、豆について人様と語り合うほどの情熱は……」

と返答しつつ、(これ、もしかしてナンパか?)との可能性を感じた私は、当時初めての結婚生活を送っていた。

「あの、そろそろ帰らないと。夫も待っていますし」

「じゃあ、メールアドレスを教えてください! あなたも旦那さんも都合のいい日に、豆について話しましょう!」

まさかの夫巻き添えである。彼は見ず知らずの人と豆について語り合う機会を妻が無断で設けていたら、喜ぶだろうか。いや、困惑すると思われる。

「だから私はそこまで豆を愛してはいませんし、夫の都合も……」

「だからメールで連絡を取り合いましょう!」

「嫌です!」

「あなたの好きな豆を教えてくれるだけでもいいんです!」

「黒いんげん豆と大豆です! さようなら!」

私がきびすを返し、それをエディー氏が引き留める、というのを何度も繰り返した。私は決して小柄でも華奢でもないが、大柄なエディー氏の力はなかなかのもので、いともたやすく引き戻されてしまう。

その様子を眺めて笑う見物人が出はじめたが、やり取りが滑稽だからか、間に入ろうとする人は現れない。助けを求めるように視線を向けても、含み笑いをしながら目を伏せられてしまう。

「もっといろいろ、豆の話をしたいです! だから待ってください、ヨシミさん!」

「ノゾミです!」

ああ、なぜ訂正してしまうのか私は。

「5分や10分で構いません……豆の話を……」

このとき私は、あからさまに迷惑そうな表情を浮かべていただろう。それでもなおも食い下がるエディー氏が、私は少しだけ気の毒になってきた。そして豆の何が彼をここまで駆り立てるのかは気になるが、やはり連絡先は教えたくない。

「エディーさんが豆のお話をなさりたいのは分かりました。でも今日の私はそろそろ帰らなくてはいけませんし、携帯電話も持っていないんです」

と口にした直後、私の携帯電話の着信音がご陽気に鳴り響いた。何とタイミングの悪い……。

「あるじゃないですか! 面白いなあ、マナミさん!」

「ノゾミです……」

観念した私はエディー氏にメールアドレスを伝え、引き換えに彼の職場の名刺を受け取った。

エディー氏とのやり取りで気力も体力も使い果たしてしまった私は、食材探しを諦めて帰路に就いた。一足早く帰宅していた夫に「えらい目に遭った」と、自分の迂闊さを食いつつ、先ほどのできごとについて報告した。

「ナンパ? え、でも俺も? あと、どうして豆?」

と、やはり困惑して夫に「まあ、誘いに乗るつもりはないけど……」と断りを入れ、説明を続けようとしていたところ、メールの着信音が鳴った。エディー氏からである。

【さっきはありがとう、なつみさん】

ノゾミだよ。ここまでくるとわざとではないかと思えてきた。気を取り直して続きを読む。

【お会いできてうれしかったです。あなたと、あなたの旦那さんが都合の良い日に、お話ししましょう。私の今月の予定は】

と、エディー氏の休日が記されている。その後に続く数行は、締めのあいさつであろうか、と画面をスクロールした私が、直後、素っ頓狂な声を上げることになるとは。

【井川遥は好きですか?】

「えっ? 井川遥って、あの井川遥のこと!?」

俳優の井川遥氏は当時、ドラマにCMにと引っ張りだこの人気であったため、雑談の話題に上ってもおかしくはない。が、あまりにも唐突だ。豆はどうした。

【いがわはるか?

 イガワハルカ?

 IGAWA HARUKA?

 よろしくお願いしますね!】

表記を変えつつ繰り返してからよろしくお願いされても、混乱するばかりである。夫にもメールを見せたが、「あれ? 豆の話は? どうして井川遥の話を?とうろたえ、顔を上げ、私に目を向けた。私は目を合わせたまま眉をひそめ、首をかしげるしかできない。

こうなってくると誘いを断るだなんだより、突然の井川遥に引っ張られてしまう。私は頭の中をクエスチョンマークだらけにしながらも、エディー氏に返信をした。

【こんばんは。Enthusiatic(※熱狂的)というほどではありませんが、私は井川遥さんに良い印象を持っています。】

その日、エディー氏からの返信はなかった。翌日も、その翌日以降もリアクションを確認できないまま、しばらくしてから私は携帯電話のキャリアを変更した。それに伴ってメールアドレスも変わってしまったため、エディー氏の豆への執着と、突然の井川遥についての謎は明かされないまま本日に至っている。

その後、彼と街中で再会することもなかった。

あれから10数年経過し、今振り返っても、実に珍妙なできごとであったな、と感じる。エディー氏は何をしたかったのか、なぜ私が目を付けられたのか、さっぱり分からない。

上記は紛れもない事実なのだが、「木の芽どきで、筆者の頭がいかれてしまったのだろうか」との誤解を抱く方がいらしても、これについては致し方ないような気さえしている。

もう使うことはないだろうと、エディー氏の名刺は処分してしまったが、名前などを検索したら、彼の足跡や思考などを追うことができただろうか。……いや、そこまでして知りたいとは思えない。

しかし、ほんとどこに行ったんだろうな、豆の話は。あと、やっぱりナンパじゃないな、これは。

鈴木希望

鈴木希望

1975年新潟生まれ、新潟にて息子とふたりで暮らす、フリーランスのライターです。広告媒体の文章を中心に、『LITALICO発達ナビ』などでのコラムもときどき。ヤギを愛し、ヤギについて考え、ヤギを応援しています。

Reviewed by
神原由佳

全く自慢にならないが、私も人生で2回ほどナンパにあったことがある。
しかも、2回ともコロナ禍に起こった出来事で、美人ではない私もマスクで口元を隠せば多少は声をかけたいと思える容姿になるのかもしれない。私はそう分析している。
そのうちの1回は強烈だった。

昨年の12月26日のこと。仕事納めで家路についていた私は、ふと自分の耳たぶに手をやると、本来ならばそこにあるはずのオパールのピアスがなくなっていた。自分で初めて「ジュエリー」と呼ばれるものを買った。だから、ずっと大事にしようと意気込んでいた矢先に、オパールのピアスはなくなってしまった。
すぐに来た道を戻り、夜道をスマホのライトで照らして駅まで戻った。飼い猫が突然いなくなってしまったような悲しみで、人目も気にせず泣きながら探した。駅の改札をくぐり、ホームまで降りたが、それでも見つからない。今日はもう諦めて帰ろうとしたところで「大丈夫?」とチャラそうなお兄さんに声をかけられた。
なんでこんな時に声をかけるんだ、と、今はそっとしておいてほしい気分だった私は「大丈夫です」と言って立ち去ろうとした。が、「さっきまで友達と飲んでたんだけど、気がついたらここにいた。ここはどこ?」と続けた。その後、「ここには何もないから、飲み屋のある駅に行って一緒に飲もう」的なことを言われた気がする。
合間合間に「かわいい」とかなんとか言ってきたが、私のことを「かわいい」と言ってくる人を警戒してしまうので、逆に居心地が悪かった。
「いつもこんなことしてるんですか?」
この先、ナンパと関わりの深い人生だとは思えないし(むしろ、そうであってほしい)、この際だから聞いてみた。
「そんなことないよ」とは言うものの、全く信用ができなかった。家を特定されては困るので、自宅とは反対方向を歩き始めた。チャラいお兄さんはついてくる。「〇〇駅に行こう」と誘ってくる。終いには卑猥なことも言われたが、そんな頼み方をして答えてくれる女性は果たしているのだろうか……いや、いるんだろうな……、と思った。
「私は帰りますし、時間がもったいないので、〇〇駅に戻って他の人を探したらどうですか?」と言うと「もう2度と会わないと思うけど、それでもいいの?」と聞かれた。「いいですよ」と、なぜか少し意地を張ってしまった。
その後もなんやかんや付き纏われながら、初めの場所に戻った。とうとうチャラいお兄さんも観念して、タクシーを止めた。「本当にもう2度と合わないから」と言う。私は「さよなら」とそう言って、家路についた。
ピアスを落としたことがえらく昔のことのように感じた。それよりも、これはなんだったんだろうと、自分でもよくわからなかった。
「もう2度と会わないから」という言葉は私を引き止めようとした言葉だったのかもしれないけれど、そんなことは無意味だった。私も、もうあなたに2度と会うことはないと思う。

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