長期滞在者
街を舞い飛ぶビニール袋は、予期しないときに突然現れる。 初夏の真っ青な駅前広場で、緑の文字が書かれた白いビニール袋が、ふわふわと舞い降りてくる。その気配に気づいて、スマートフォンを取りだしてカメラを起動する頃には、もう、地面にぺしゃりと潰れており、ふたたび動きだしそうな様子はまったくない。ビニール袋をすかしてコンクリートの地面にうつる透明な影が、今でも目に見えるような気がしてしまう。 地下鉄に通じ…
長期滞在者
東京から遠く離れたところで、活動の拠点を置いている写真の作家さんが近々地元に作品の発表の場を自分たちで立ち上げようと準備していると聞きました。 写真ギャラリーが今までなかった地域にその土地に根を下ろして、自分の表現の実践と思考を深めていく、ならびにその地域の人々と結びついていく場を持つというのはとても意義深いと思います。 地方都市において、写真展といえば、地元のアマチュアカメラ愛好家の人たちの、お…
長期滞在者
実家に住んでいた頃は、家を出たくて仕方がなかった。人生とはこうあるべきと言わんばかりの、あらゆる押し付けに耐えられなかったからだ。 私の両親は「こうすれば人生は安全だ」という正解を持つ世代だった。大学に入ること、大手企業に就職すること。結婚して子供を産むこと。 けれど私の世代は違う。正解はない。学歴や職歴、家や車を持つよりも大切なことがある。 この家には、正解という虚像に近づくことよりも自分の納得…
長期滞在者
わたしのことを”娘”と呼ぶ人が、久しぶりに泊りにきた。 その人は、こころがとても疲れていた。 わたしもその日、バイト先の人と話して「そろそろ限界にみえる」と言われて、限界、限界、と浅く考えていたところだった。硬い頭を突き破れなかった文章が、バラバラの単語になって、諦め悪く頭の上で跳ねている。鬱陶しい。 不思議なもので、疲れて、”誰かに会ったら壊れそう”という意識に心が傾く手前で、その人は連絡をくれ…
長期滞在者
サッカーのW杯がフランスの優勝で幕を閉じた。 日本戦で奇跡的な逆転勝利をもぎ取ったベルギーが 彼らに準決勝で負けたのはとても悔しかったが、 フランスは巧妙な戦術と正確な技術とで最後まで着実に勝ち続けた。 決勝戦があったのは7月15日。 ぼくはもともとその前々日からパリに滞在する予定があり、 その翌日の14日がフランス革命記念日に当たっていて、 初めてのパリ祭をのんびり満喫する予定にしていたので、 …
長期滞在者
今年で、日本で生活を始めて通算24年になる。私の短い人生の大半は、この国での生活が占めている。少し気が早いけれど、12月に切れるビザの更新のために、心の準備を始めないといけないなと思うような時期にさしかかってきた。 外国人として、この国に生きる以上、わたしにはビザの更新というdutyがつきまとう。もう、子どもの頃からなんども経験していることで、慣れっこではある。手続きだって慣れたもんだし、これまで…
長期滞在者
山内マリコ『選んだ孤独はよい孤独』(河出書房新社) 山内マリコさんの小説は、いつもタイトルが素晴らしい。 『ここは退屈迎えに来て』『アズミ・ハルコは行方不明』『さみしくなったら名前を呼んで』……。どれも初期の作品だけど、耳に残る七五調で、短歌のように数文字で作品世界の色合いがしっかりと喚起される。 『選んだ孤独はよい孤独』というタイトルも、この初期の作品たちと同種のリズムを備えている。 でも、浮か…
長期滞在者
目の前の暗い地面から潜水艦のようにせり上がった黒い小さな楕円体が急に地面からちぎれて駆け去った。 あわてて自転車をとめて行方を目で追うと、小さな小さな黒猫だった。 あまりに小さいので猫らしくなくて、まるで機械仕掛けの偽猫のようだったが、地面からちぎれて出現したのと同じように、道路脇の茂みに溶けて消えた。 ◆ 新撰組の沖田総司が肺結核で隊を離れ、知り合いの植木屋で療養生活を送っていたとき、庭に毎日黒…
長期滞在者
今では遠く離れた友人知人のことも、SNSのおかげで距離を感じさせることなく近況を知ることになり、実際に久し振りに会う人でも、あんまり久し振りの感じがしなかったりする。20代の頃、高い遠距離通話料金が払えなくて、いつ来るかわからない地元の友人たちの手紙がポストに届くのを、気長に待つのが辛うじての交流という時代を経験した身からすると、どちらかといえば便利な世の中になったと思います。先日もタイムラインで…
長期滞在者
昨年の4月のこと。ラジオレッスンの新入生の生徒が、レッスン後に1人でそっと近づいてきて、こんな質問をされた。 「先生、韓国のアーティストを好きなことをあまり話さない方がいいですよね?」 「どうして?」 「だってネットとかには、韓国のことを悪く言う人が多いから、私が韓国のアーティストを好きだというといろいろ言われちゃいますよね?」 「何を言っているの! あなたが好きなことは堂々と話していいんだよ。自…
長期滞在者
土曜でもいいし、連休のなか日でもいい。とにかく、きょういちにち休日をめいっぱい味わって、気心の知れた友人たちと、夜ごはんを食べたりなんかしながらゆったりおしゃべりして、そろそろ終電に近いような時刻に帰宅している。明日もお休みだから、ちょっとくらい遅くなっても大丈夫。 休日の街の空気には、ざわざわした人の気配やおいしそうな匂いが混じっている。この空気を吸いこんでいるだけで、自分まで、どことなく有意義…
長期滞在者
私はすぐに疲れる。大声を出す人間、人のことを平気で悪く言う人間、刺激的な音や色や情報、そういったものに触れるとげっそりしてしまう。 だからこの家の住人の親切心と自立具合、静かに営まれる生活に私はとても助けられていると思う。 誰かが私と同じように日々を生きている。その息遣いを感じるだけで、私はほっとする。 6月1日(金) そろそろ日付が変わる頃。家にいるのは今井君と昴君と私だけ。 今井君はかれこれ2…