長期滞在者
「ご賛成のかたは、右前足をおあげねがいます。(中略)反対のかたは、左あと足をおけりください。」 (『黒ネコジェニーのおはなし』より) 東京の地形は意外と起伏があり、谷のつく地名がたくさんあるのですが、夏が過ぎ去るのと同時に谷から新しい谷へと移り住みました。煙猫にとっては2回目の引越しです。さて煙猫は体つきは堂々としているのに気は小さくはにかみや、いつもおっとりくったりしてるのですが、移動はまったく…
長期滞在者
本庄早稲田には人がいなかった。駅の光だけが煌煌としていて、無人の駅の中、こんなところに新幹線はこないだろうと思った。車をおりて、母を抱きしめたとき、老眼鏡を使い始めた母の目が潤むのをみた。わたしは舌を噛んで、必死に堪えたけれど、母の顔を直視できなかった。わたしはあまりに無口な娘だ。父や母が望むような言葉を、何一つ残さなかったし、希望も残さなかった。無口で、不透明で、不安定な娘を、彼らはどうにか助…
長期滞在者
ヨーロッパの8月は学生だけでなく社会全体が夏休み気分である。 そういう気分に乗っかってのんびりしたかったのだけど、なかなかそうは問屋が卸さない。 やり残していた確定申告だとか、失業保険のための再登録手続きだとか、 飼っていたモルモット(羽左衛門)が急死したのでその葬式だとか、 人生初の運転免許講習だとか、水墨画の特訓だとか、相変わらずの作陶活動だとか、 今年一番忙しい月だったんじゃないだろうかと思…
長期滞在者
どんな言葉をつないでも どれだけ言葉をかさねても おそろしいことばかり思いついて 喉元から引き返してしまう では胃の腑に落とし込めるかなと 考えをめぐらせてぎゅうっと押したら おなかを突き破られちゃった ぽっかり口をあけた空洞には 時間を詰めてみるつもりだけれど 穴を塞ぐには当分かかりそうだよ
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仕事の移動中に昼食を摂る時間がなかったのでコンビニエンスストアでおにぎりを買った。コンビニおにぎりといっても最近はなかなか馬鹿にできなくて、 けっこう凝ってて美味いものも多い。買ったのはゴボウと鶏肉がゴロゴロ入った鶏牛蒡飯。僕はゴボウが好きなのだ。 が、切符を買い時刻表を見てあれこれ考えながら駅のホームへのエスカレーターを上っているうちにいつの間にか手の中におにぎりがない。何のことはない、無意識の…
長期滞在者
ぼくの父方の祖父は、その当時は教師だった そして母方の祖父は、その当時は銀行員だった どちらも戦争には行っていない 昭和20年、父5歳、母2歳 父の住む町は、京都に近いこともあり B29が飛び交う空を見上げることはあっても、空襲にあったことはなかった 母の住む町は長崎にあって 軍事工場が多いので危ないという噂から、佐賀県に疎開したのだという 父の住む家は、畑もあったし田んぼもあったし 庭にはポポー…
長期滞在者
先日新宿のエプサイトで写真を売るということをテーマにしたレクチャーをさせて頂きました。35度越えの猛暑の真っ昼間だというのに、後ろの方で立ち見もでているくらいお越し頂き大変ありがたいと思いましたが、このようなテーマのトークショーに興味を持たれる方がこんなにもいるのか、ということも驚きでした。 最近写真を売る買うを始めとしたファインアートフォトグラフィーの仕事の様子についてお話をして欲しいという依頼…
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2週間ほど前に、映画製作に携わっている友人から連絡があり、と ある短編映画に出演する若い役者たちの動きをコーチしてもらえな いかと相談があった。映画の現場には興味があるので面白そうなの でやってみる事にして、2日前にその撮影が終わった。 ストーリーは至ってシンプルで、暇を持て余している二人の若者が 田舎道沿いの塹壕跡で原チャリを乗り回しているときに、たまたま 通りかかった女の子に声をかけるのだけど…
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「この子たちの背中に翼がはえているのは、この子たちの生まれる前に私が見た夢のせいかもしれないわ。あれは空を飛んでこの町から出ていく夢だったもの」(『空飛び猫』より) 暑くて暑くて溶けてしまいそうなくらい暑くなるとあらゆる場所で猫が落ちているのが目につく。ところかまわず行き倒れるように予告なくぼてっと寝転がりそのままじっと動かないその姿は、いる、というより落ちている、というのがしっくりくる。多分に漏…
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先日、仕事の帰り道にどこからともなく人の話し声を聞いた。どの家から声が降ってきているのかわからなかったが、開け放たれた窓から、女性が笑いながら話している声が聞こえるのだった。そのとき、ふとナポリを訪ねたときのことを思い出した。 ナポリ旧市街、スパッカナポリの下町を歩いていたときのこと。狭い路地裏をきょろきょろ見回しながら、わたしはどこからか聞こえる無数の笑い声に気づいた。ふと見上げると、背の高いア…
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『すいか日誌』 7月20日 すいかを買う。私にとってみればこれ位の大きさたやすいはずだと、たまに突然発生するお得意の根拠のない自信と共に2Lサイズを抱える。大きいのは冷えていないので、とりあえずすぐ食べる用にカットすいかも一緒に購入。 いっとう好きな食べ物はすいか。迷わずすいか。どうしようもなくすいかが好き。すいかがあるから夏を生きられるといっても決して過言ではない。 冷蔵庫の中段を外して、冷蔵…
長期滞在者
年を食って物忘れが激しくなった。最近のことは忘れても案外昔のことほど覚えているものだというけれど、程度問題であって、昔のことでも記憶は混乱する。だったら「鮮明な記憶」というのはいつの時期ならあるのか、という話なのだが、もしかしたらそういうのはなくても人は生きられるのかもしれない。すべての記憶は薄れ拡散し組み替えられて改竄されて、ゆっくり霧に溶けるようになくなっていくのだろう。それでもときたま、霧の…