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3F/長期滞在者&more

日常、という言葉は馬鹿げているような気もするけどひどく愛おしいものなのだな

長期滞在者

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『すいか日誌』

7月20日 

すいかを買う。私にとってみればこれ位の大きさたやすいはずだと、たまに突然発生するお得意の根拠のない自信と共に2Lサイズを抱える。大きいのは冷えていないので、とりあえずすぐ食べる用にカットすいかも一緒に購入。
いっとう好きな食べ物はすいか。迷わずすいか。どうしようもなくすいかが好き。すいかがあるから夏を生きられるといっても決して過言ではない。
冷蔵庫の中段を外して、冷蔵庫いっぱいにすいかを収める。これが楽しくてしようがない。なんども開ける。何度も何度も開ける。

7月21日 朝
 
とりあえず半分に切る。1/3と2/3位に分かれたので、1/3の方をどんぶり(実際はすり鉢位ある)方式で大きいスプーンですくって食べる。とても贅沢な気がするのだけれど、この食べ方は種が底にたまっていってしまうので、すいかの食べ方にはあまり適していない。でもまずは2Lサイズの醍醐味を味わいたかったのだ。

7月21日 夜 

輪切りにして食べる。ちょうどいいお皿がないので、サランラップをひいた上に乗せる。家のテーブルはガラスなので、浮いているようだ。ザ・フライングスイ~カ。

7月22日 朝 

お造り風で行く。すいかをごく薄切りにして並べ、小皿に塩を。これはしゃくしゃくしてまたおもしろい食感。種もとりやすい。一番甘さを感じたような。

7月23日 昼 

ワイルド方式で食べる。荒野でカウボーイがリンゴや干し肉を食べるときに少しづつナイフで削いで食べていく例のやつ。皮が硬いので途中からギザギザがあるパン切り包丁を使った。さすが2L、削いでも削いでもなくならない。なので際限なく食べ続けたら、みんながいう「すいかはキュウリの味がする」というのがなんとなく分かった。

7月24日 朝 

冷蔵庫を開けてももはやそれ程の感動は襲ってこなかった。恋人が家族に変わる瞬間ってこんな感じなのだろうか。いてくれて嬉しいけど、いつまでもいて欲しいけど、今日は手に取る気にならないの、ごめんね。

7月25日 夜 

浅草にて花火鑑賞後すいかを頂く。みんなで食べるとまた格別の味わい。うちのはどうしているかしら…明日は食べよう、と夜道でマイすいかを想う。

7月26日 昼 

オーソドックスに山型で食べる。真ん中のあたりは甘いのでそのまま、皮に近づいたら塩を少々。志村けん方式をためしてみようかとも思ったけれど、おとななのでやめておく。あれは観るのが面白いのだと思う。逆にトッポジージョ方式でおちょぼ口で少しずつしゃくしゃくしゃくしゃくやってみる。少し楽しい。

7月27日 朝 

昔読んだマンガで、すいかの皮を顔にすりすりするといいというのをふと思い出したのでやってみる。ちょっとつべつべになったような気がする。

7月28日 朝 

すいかを食べるのは目の前にすいかがあるからだ。こんなに続けてすいかを食べるのは人生初かもしれない。なんと幸せなことでしょう。すいかが好いか。伊勢丹に売っていた観賞用の食べてもらうことが出来ない星型やハート型のすいかは悲しい。

7月29日 

完食予定。ありがとう、ありがとうすいか。
こんどはあの伝助すいかが食べたい。

°。

これはちょうど4年前の私の日常。

そして今も私のすいか愛を知っている人々は病院へ顔を見にやってきてくれる際、カットすいかを買ってきてくれることが多い。ひと口サイズに切られたすいかへの愛は今も変わらないけれど、それをふたかけら(この上なく不本意)ずつ、前よりもずっとたくさんの日にちをかけてなんとか食べきる(この上下なく不本意)。

これが今の私の日常。すくなくとも。

『日常』

作業療法リハビリで絵を描いている。病棟内なので画材も、あと私自身の体力(というより集中力かな)も限られるけれどなんとかこの日までに3枚が仕上がった。だいぶ狙った場所に点を打てるようになってきた気がする。

脳科学は常に進歩していて脳は考えられていた以上に可塑性を備えていることがわかってきたと言う。私の脳を這うシナプス達も手を取り合う相手を変えたり、より遠くまで枝を伸ばしたりしながら補完しあっているのだろうか。

equilibrium = 平衡

日常、という言葉は馬鹿げているような気もするけどひどく愛おしいものなのだな。

わからない、なにもできないからってしらないふりをしていたくはない。
ちがう
わかることで、なにが、なにかができるのかをちゃんとしりたい。

imagine = 日常

°。

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古林 希望

古林 希望

絵描き

私が作品を制作するあたって 
もっとも意識しているのは「重なり」の作業です。

鉛筆で点を打ったモノクロの世界、意識と無意識の間で滲み 撥ね 広がっていく色彩の世界、破いて捲った和紙の穴が膨らみ交差する世界、上辺を金色の連なりが交差し 漂う それぞれテクスチャの違う世界が表からも裏からも幾重にも重なり、層となり、ひとつの作品を形作っています。

私たちはみんな同じひとつの人間という「もの」であるにすぎず、表面から見えるものはさほどの違いはありません。
「個」の存在に導くのは 私たちひとりひとりが経験してきた数え切れない「こと」を「あいだ」がつなぎ 内包し 重なりあうことで「個」の存在が導かれるのだと思います。

私の作品は一本の木のようなものです。
ただし木の幹の太さや 生い茂る緑 そこに集う鳥たちを見てほしいのではありません。その木の年輪を、木の内側の重なりを感じて欲しいのです。

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