ここ10数年の間に私は何を失い何を得たのだろうかと考えています。若さを失い役割を得た、といった個人的なことではありません。とはいえ、この社会から何が失われ何が新たに現れたのかという社会学的な興味でもない。むしろ、私と社会のあいだをつなぐ領域において何が喪失され何が獲得されたのか。体感はしているはずですが、体感しているからこそ簡単には言葉にできない。そんな変化について書いてみたいと思います。
私と社会のあいだをつなぐ領域。私にとってその一つは、小説やマンガや映画といったフィクションを批評する一群の言葉にあります。個々の作品を楽しむこと自体は個人的な経験であっても、その経験をより多くの他人と共有するために生みだされる言葉は個人的なものではありません。かといってフィクションの内部でどんな事件が起ころうとも新聞の一面に載ることは殆どないように、それは純然たる社会的現象でもない。私がある作品に感動し・苛立ち・落胆して喋りだしても、どうしてそんなことをするのか全くピンとこない人が常にいるように、フィクションについて特定のやりかたで語るということは集合的な営為(例えば誰もがお金で何かを買うようなこと)ではありません。でもそれは、創作物に心動かされた誰かの言葉に心動かされる他人が現れる限りにおいて、個人の経験を少しだけ超えた領域を形成します。
6年ほど前、私と私に近しい人物は次のような批評の文章を書きました(全体をどちらが書いたかは忘れましたが、引用箇所は私の文章ではありません)。
自らの矛盾に自ら目を向けて、自らの世界を自ら壊すという作業において信仰されているのは、その先に広がる新たな世界の存在であり、そこにはすでに存在しない私以外の「他者」である。そして、この構図こそ、『ディスコ探偵』の下巻の最大の主題であるだろう。ここでこの「他者」は、「子供」である。ここにある種の「生殖モデル」が入り込んでいることは間違いない。[中略]それは「世界」そのものによる「生み」と「死」の行為である。その先には「僕」は行けないというのがさらに重要なポイントである。つまり「僕」は死にゆく世界と共に、消え去ることを自ら選択するということである。それこそが「他者」への信仰でなくて何なのか。「僕の世界」=「世界の終り」的な倫理からすれば、これは最大の悪であるだろう。子供はいてはならないのである。それに対して、「自ら壊れゆく世界」=「終わらない世界」的な倫理からすれば、これこそが最大の善であるだろう。個人的な私は否定され、消尽され、それによって私ならざる他者(子供)が生み出されることが全力で持って肯定される。舞城の文章が文学であるとすれば、それはこのような倫理の変更をやってのけたことにあるのではないか(1)←元の記事です
ここで「『僕の世界』=『世界の終り』的な倫理」と言われているのは、村上春樹の小説に描かれているような私と世界の関係性を指しています。そこでは社会的な意味合いを帯びた出来事は起こらず、起きたとしても主人公=「僕」にとって意味のあるものへと変換されます。作品世界を構成するあらゆる要素は「僕」と結びつけられ、「僕」の現在と過去、その表面的な心理と深層にある混乱の全てが登場する様々な人物や場所を通して極めて親しげに表現される。作品世界が存在する根拠は「僕」にあり、社会に流通している規範的な語り口によって世界を一般的に把握することは徹底的に回避されます。例えば「僕」はフリーライターであったりバーの店主であったりするけれども、こうした職業の世間一般における位置づけについては全く言及されず、「僕」にとってそれらの仕事がどのようなものであるかだけが語られる。さらに、こうした「僕=世界」の外部にある領域、「世界の終わり」の次に来るものは、特別な他者(亡き親友や失踪した妻)と「僕」の関係を通じて示唆されるだけで、決して直接的に描かれることはありません(2) ←詳しい分析。
かつては若者が好む都会的ライフスタイルへの文学の迎合として激しく非難されたこうした表現手法に刻印された発想は、しかし、今では全くもってありふれた規範的な考え方となっています。「自分の頭で考え、自分の言葉で表現することが大事だ」といった語り口、オリジナリティの称揚、オーナーによる意味づけが細部まで施された個人経営のカフェやレストラン。常識的で一般的で規範的な考え方やライフスタイルを疑い、自分なりに意味づけた世界を構成し、それを土台に外部の他者と関わっていく。こうした発想は、その失敗例としての否定的な自閉者イメージ(「おたく」や「引きこもり」)を伴いながらも、私たちと社会のあいだに今では広く浸透しています。
私に近しい人物が引用箇所で検討していたのは、こうした「僕=世界」の倫理がいかに解体されていくのかという問いでした。中心におかれるのは子供の位置づけです。「僕=世界」の倫理においては「子どもはいてはならない」。今ではやや想像しにくいことですが、子どもを産み育てることは常識的で規範的な社会生活への全面的な参入でしかない、と思われていたからです。村上作品では、例外的に社会的な人物として主人公の元共同経営者が少しだけ描かれます。「僕」によって意味づけされた世界に位置をもたず、そのため名前も与えられていない彼は、二人の子供をもち主人公が抜けた翻訳会社を経営する常識的な人物です。業績不振に悩みアルコール中毒気味になった彼は主人公に翻訳業への復帰を持ちかけますが、「僕」は次のように反応します。
「子供のことを考えろよ」と僕は言ってみた。フェアな展開ではないが、それ以外に手はなかった。「弱音を吐いてなんていられないだろう。君が駄目だと思ったら、それでもうみんなおしまいなんだぜ。世界に対して文句があるんなら子供なんて作るな。きちんと仕事して、酒なんか飲むな」(『羊をめぐる冒険(上)』P253) (3)←詳しい考察
世界に対して文句がある「僕」はもちろん子供を作りません。それどころか恋人は亡くなり、妻は失踪する。きちんとした仕事はしないし、「僕=世界」の深部を探究する冒険の合間に不思議と美味しそうにビールを飲みます。村上春樹の新作が発表されても「今度は何を出してきたんだろう」という緊張感を伴う興味を抱かなくなってから暫く経ちましたが(そしてこれは明らかにここ数年で私が個人的に喪失した事柄の一つではありますが)、もし彼が子供を産み育てる「僕」を今後描くことがあれば、私は再び彼の良き読者になれるかもしれません。
これに対して、私に近しい人物が検討している作品(舞城王太郎『ディスコ探偵水曜日』2008年)は、「世界に対して文句があるんなら子供を作れ」と言います。「僕=世界」の終わりの次に来るもの(=子供)を「僕=世界」の論理に決して回収できないものとして肯定し、「僕=世界」の論理を全面的に崩壊させることで生みだすこと。「個人的な私は否定され、消尽され、それによって私ならざる他者(子供)が生み出されることが全力で持って肯定される」。
「それこそが『他者』への信仰でなくて何なのか」。私と社会のあいだで、ここ数年の間に失われた事柄の一つは、まさにこうした意味での「『他者』への信仰」であったように思うのです。「僕=世界」の論理が消尽された先に「僕=世界」に回収できない他者が生みだされる。しかし、そうした他者と「僕」の関係はどうなるのか?「僕=世界」の消尽を主人公の英雄的な自己犠牲として描いたこの作品の限界は、「僕=世界」に回収できないものとして捉えることが可能になった他者とそれでも私たちはつきあっていくことになる、という、より凡庸で日常的でしかし切迫した事態を描けないことにある、と今になっては思います。このような他者はもはや「おたく」や「ひきこもり」のようなアクセスを拒絶する存在ではなく、「僕=世界」の論理を互いにすれ違いさせながらも他人と関わる「コミュ障」や「アスぺ」と(否定的なイメージにおいて)呼ばれる存在へと変化しています。
「世界に対して文句があるなら子供なんて作るな」から「世界に対して文句があるなら子供を作れ」への移行の先に「世界に対して文句があっても子供は生まれるし、それと付きあうことになる」という主題が前面化する。「僕=世界」の論理の彼方にいる他者ではなく、それと並列して作動する異なった「僕=世界」の論理を生きるものとしての他者。「僕=世界」の論理に基づきつつその外側でも他者と関わろうとするならば、「僕」が発する言葉は全て「戯言」(西尾維新)となり、戯言の応酬が開く部分的なつながりを伝って共有されうるものが生みだされていく。私と社会のあいだでここ10数年の間に獲得されたものの一つは、「僕=世界」の論理の絶えざる激突としてのコミュニケーションが断絶を超えて「共有=シェア」されるものによって活性化し、捻じ曲げられ、炎上していく、そのプロセスにおいて各々の「僕=世界」自体が組み替えられていくという発想なのではないか、と思っています。そして、おそらくそれは、上の文章を書いた直後に速やかに結婚し、今や二人の子供を育てている私の近しい人物が誰よりも明確に私に示してくれたことであったように、今では感じています。