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3F/長期滞在者&more

暁の人類学(1):明るいような暗いような

長期滞在者

 皆様はじめまして。クボと申します。友人に誘われ、このウェブマガジンに参加させてもらうことになって、私はすこし困っていました。様々な活動をされている方が日常的な思いや思考を綴る場所という説明を受け、さて、自分はここで何を書けるのだろうか、と。

この十年来、私は文化/社会人類学という学問をやっています。日々感じること、思うことの大半は研究とつながっていきます。例えばTVをつけバラエティ番組をだらだら観ていると、次々と繰りだされるテロップの一部が気になります。

何か変だな。そう思うと自動的に分析が始まります。変だと思うテロップ/そう思わないテロップを分けて、二つの違いを探ります。まず、後者はタレントの発言の面白さやインパクトを強調するタイプのものだと分かります。発言自体が面白く、テロップはそれを際立たせるだけ。

 一方、前者のテロップの場合、それに対応する発言自体は特に面白いわけではない。ただ、場面が少し進むと、その発言を受けて何か面白いことが言われます。漫才のボケとツッコミのように、最初の発言とそれを受けた発言がセットになって一つの面白さが生じている。視聴者は二つ目の発言を受けて最初のテロップを思いだすことで、そのやり取りに参加する。

 ここまで進むと、ほとんど研究と変わりがなくなります。前者を「伏線型テロップ」、後者を「強調型テロップ」と呼んで、近年の主要なバラエティ番組を調べ、前者が増えているという自分の実感が適切かを確認します。確認が取れたら、その「現象」をより一般的な文脈に位置づけます。そうすると、だいたい次のような文章がでてきます。

・・・テロップは、モニター上に映し出される視覚的情報に対する文字情報であるから、情報に対する情報、メタ情報である。個々人の経験や趣味がますます多様化している現代において、その情報をどう受けとりうるかを示すメタ情報は、皆が体験を共有するうえで極めて重要になってきており、テロップもまた情報を受けとる文脈を明示する効果を持つ。ただし、『ニコニコ動画』のようなメディアが、メタ情報の明示に加えて「疑似同期」(視聴時期はバラバラでも動画上を流れるコメントによって皆が一緒に動画を見ているように思わせること)を実現するのに対して、TVでそれは不可能である。だが、「伏線型テロップ」は、それ自体は地味な発言に視聴者の目を引きつけ、それを受けた発言とのセットによって生みだされる「面白さ」を強調することで、視聴者同士ではなく、視聴者と出演者との間に一種の共犯関係を生みだす。情報の文脈を明示するだけでなく、情報の文脈に深く参与することを誘う仕掛けなのである。同じ構造は例えばLINEのスタンプのような・・・

 まぁ、半分は冗談のような文章です。実際に一つの論文に仕上げるためには、多くの課題や条件をクリアする必要があります。バラエティ番組の制作過程に関する文献調査やインタビューを行い、マスメディアとネットメディアの差異に関わる論文や本を網羅して、「伏線型テロップ」と似た事例を探して分析を加え一般的な結論を導き、論文を投稿するのに適切な学術誌を探してその文脈に相応しいものに内容をアジャストすることになります。

 見聞きした出来事のなかに差異(変だと思うテロップ/そう思わないテロップ)を感覚し、差異の要因を特定し(強調型/伏線型)、一つの現象(伏線型の増大)として捉えて社会的な状況(メタ情報の前面化)のなかに位置づけ、先行研究や他の事例とあわせて一般的な命題(文脈吸引型メタ情報の現れ)を引きだす。上の文章は一例ですが、大体このようなステップを経て研究が進みます。文系の研究としては標準的なやり口の一つと思われますが、私が得意とするのは具体的な事例分析と一般的な命題の間に緊張関係を作って両者を段々と変容させていく記述方法で、これが研究者としての個性を形作っています。

 このように、私の日常は学問に浸食されています。「日々感じること」を率直に書いていくと、研究のメイキングのような文章になってしまう。一度くらいはそれも面白いかと思って上に書きましたが、毎回これでは読者の皆さんも困ってしまうのではないか。そもそも学問的な論考であればそれに相応しい媒体に書けばよいわけですし、「多様化する現代において」とか「メタ情報」といった言い回しは正直うさんくさく、どうにも趣に欠ける(笑)。

 だから、私に「日々感じること」があるとすれば、それは日常的な雑感から学問的な文章に向かうプロセスの途中に相当するのではないか、と思うのです。何か変だな、モヤモヤすると感じたことを、整理された言葉に置き換えるのではなく、その一歩手前で考えてみる。夜が明けて覚醒する前の朦朧として開放的な、明るいような暗いような場所で話してみたらどうか。そう思って、「暁の人類学」というタイトルをつけました。

 おそらく私は、自分が磨いてきた学問的な思考や記述のスタイルに少し飽いているのかもしれません。いったん手持ちの武器を置いて、ごろごろとした感覚と思考を、素手で扱ってみたい。もちろん、なかば身体化された学問用語は今後も顔をだすでしょう。ある種の言葉を手足のように使えるようになった時、私たちはその種の言葉にすっかり侵されています。自分の発する言葉が自分を表現しているように錯覚して、がんじがらめの幸福を感じています。そんな言語という存在を、私はとびきり愛していますし、心の底から憎んでいます。

 私たちの日常はどこまでも雑然として断片的で、活動的です。それは「多様化する現代」なんていう、分かったような言葉をどこかでヌメッとすり抜けていく。正直、だれが読んでくれるのかもよくわかりません。でも、日常のモヤモヤにそのまま向きあうことを大切にしている方が、この文章の向こう側に何人かはいてくれるだろうことに賭けてみようと思います。月に一度のペースになりますが、しばらくお付きあい頂けるとありがたいです。

kuboakinori

kuboakinori

文化人類学者、たぶん

近刊『ロボットの人類学―20世紀日本の機械と人間』(世界思想社、2015)

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