Reviewed by
藤田莉江
今回は一切のエピソードのない記事で、1人の人物写真が7枚。
それも、撮り手・写り手の関係について、それぞれの人物について、想像を助けるシチュエーションというものも情報として与えられていない。
一人の人を、7枚写真に撮り、「情報」とする場合、それは果たして7枚「も」あるのか、7枚「しか」無いのか、果たしてどちらであろう。
無表情ではないが、すぐ消えてしまいそうな、隙間のような短い感情。
読めないその場のテンション。
どこか不自然な体勢。
その人以外、何も見えないある種の不自然さ。
どれも、どこか心細さを感じさせるようである。
7枚もあるのに、7枚しかない。
写真に人物が「しっかりと」写っているのに、そこから与えられる情報というのは絶対的に不十分である。
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と、いうのも、写っているのはわたし(レビュワー)自身である。
故に、この記事をご覧の皆様が持ち得ない現場の情報を全て持っているし、ここにある全ては、他でもない自分自身の体験であったはず。
写真には何が写り、何が写らないのか。
その問いを体感を通して、ひどく突きつけられた気分である。
自分自身、体験していてもわからなかったような事が、ここにどうしようもないほど「写って」いる。
自分自身、体験したはずのことが、こんなにも「写って」いない。
「すべての風景に、意味が立ち上がってくるよりも速いスピードで立ち向かうのだ」 https://apartment-home.net/long-visiter/aboutaview/
「人物写真」 https://apartment-home.net/long-visiter/%E4%BA%BA%E7%89%A9%E5%86%99%E7%9C%9F/
この2つのカマウチさんの記事を思い出す。
この7枚を見て、人はわたしの何を知るのだろう。
何を知ったと思えたのだろう。
とても興味がある。