目の前に憂鬱が漂っていた。
そうみてしまう自分の視点と目線があるのか、
現実の世界にそんな事象が広がっているのか。
感覚に濁りが生じているのだと思う。
淡々とすぎていた毎日。
だが、1日の重みはある。
十二分にある。
毎月の綴日である13日付近では、
今よりも体調が優れていなかったが、
今月は特にオト、イミ、ヒト、カチに触れながら
つくりだすことのできるアートワークに巡りあえていた。
他者や外界にあるあらゆる事物との出会い、対話、構築が
すぎてゆく日々に彩り、グラデーションとして作用し
1日を惜しみなく過ごしているのだと改めて気づく。
人とのちょうどいい、塩梅な距離をつくりだしたり、
保ったりするのが苦手だ。
今までに綴っていたような文字たちから察してみて
欲しいが言葉の言い回し、コミュニケーションの仕方、
プロセスに波がありすぎるのかもしれない、、、
(一般的な書き方、話し方ってなんだろう
という疑問はそっと置いておく)
あと、人に寄り添うことが得意であるのかもしれない。
得意というよりか、家族、仲間、敬愛している方、
地上にいる人々、また地球にいる全ての生命に感謝の
気持ちを抱きながら接したり、動いていることには違いない。
仮説ではあるが、まだ繋がっていない事柄や人物、
ほぼ全ては今ある繋がりが因子として、
接続・切断・再接続が起きているのだと思う。
みえる繋がり、みえない繋がり、
みえにくい繋がりと様々にあると思うが
ひとつの生命としてわたしはその繋がりたちと
その先にあるなにかに影響されたり躍動が起き
今に至る活動と人間生活を試行錯誤している。
アートワークの根幹に繋がるが
この繋がりを淘汰させたり、伝播させたいという心持ちから
時間と空間に何かを掲げ、写し、仮設することで
この現状や思いを分かち合ったりみつめあいたいのだと
自身の遍歴と行動と思想から察する。
これからもわたしに在る波、漣でも荒濤でも
それぞれの抑揚にバランスを以って丁寧に、
円やかなムーブメントを起こしたい。
療養とともにも。
p.s. 来月はアートワークのディテールを綴りたいと思う。