ぼくはビビりだ。“超”がつくほどのビビり。そんでもって、妙に探りを入れるというか、考え過ぎてしまうというか、被害妄想が激しいようで、なにをしていても、なにもしていなくても、相手に笑われているような感覚に陥ってしまうことがある。例えば、街を歩けば、田舎出身のぼくは「田舎者だ」「なんかへんなやつがいる」と嘲笑されているんじゃないか、なんて無駄なことに気を遣ってしまうことが日常茶飯事だ。
おそらくこれって、自分に自信がないことの表れ。自信がないからといっても、ぼくの場合は、着飾ったり、虚勢をはってみたり、そういうことで自信をカバーしようという“攻めの性格”では決してなく、静かに自己完結の世界のなかで、自信のなさと闘っているみたいだ。実はだれもてんで気にしてないことを、自分が気にしすぎるから、なにかそれを相手に突かれているんじゃないか、と勘違いしてしまうことはよくある。これは、ひょっとしたら、もしかしたら、ぼくだけの話だけではないのかもしれない。
江戸時代にさかのぼってみると、鳥山石燕という画家がいて、彼は『今昔百鬼拾遺』でたくさんの物の怪を描いた。つまりは、妖怪画集をつくった。そこには、「倩兮(けらけら)女」という妖怪がいる。
“寂しい道を歩いて、何だか不安になってくる。すると、こんな道には何か出るのではないかと思いはじめる。そんなとき、どこからとも知れず女の笑い声が、「ケラケラ」と聞こえてくる。はっと思って振り向くと、大きな女がこちらを見て笑っているから、大抵の者は二度びっくりし、慌てて駆けだそうとする。するとまた、さらに大きな声で、「ケラケラ」とくるから三度びっくりする。気の弱い人は気絶することもある” (水木しげる著「日本妖怪大辞典」より)
民族学者の柳田國男は「笑いは笑われる者にとっては恐怖である」と書いたらしいけど、このけらけら女は、そういう人が持つ“笑いの恐怖”を抽出したような妖怪とのこと。そもそも妖怪ってのは、自然現象や病気、人間の恐怖心などが形を変え、画として描かれ、名付けられ、命を吹き込まれたようなものだ。そこには、人間の教訓とも呼べるももの妖怪として描かれている。思うのだが、けらけら女という妖怪にもひとつの教訓が込められてるのではないか、と。
今も昔も変わらずに、「人の目を気にしてちゃいけないよ」ということなのかもしれない。他人はもちろん、世間のことを気にし過ぎちゃって、“常識ではないはずの常識”という声が、どこからともなく聴こえてきて身体がこわばって動けない…みたいな、生きづらさを感じてる人は、多いのだと思う。
ホントは、常に、常に、他人ではなく世間ではなく、ゼロ距離にある自分との闘いでしかないはずなのに。自分でなにかを選択し、行動するときの指針は、自分のなかにしかないのに。自分の外を気にし過ぎてしまうから、聞こえないはずの笑い声が聞こえてくる。実はどうでもいいリアルに聞こえる笑い声も、その受けとり方を誤り、自分で自分を傷つけるというような。
「怯えてるだけでなく、耳を澄ますべき場所を間違えずに、自分の選択を間違えないように」。けらけら女という存在に触れるたびに、それを考えるし、自分自身を鼓舞するような気持ちになる。事実、こんな「いない」といえばそれまでの存在について考えることで救われることがあるんだなぁ。
これは、あくまで個人的な推測でしかないけど、“頭の中に声が聞こえる”という状態は、現代病ともいえるような症状にある。江戸時代にも少なからず、そういった人がいたのではないかと考えると、けらけら女は、当時の人たちの暮らしや精神状態を読み取れるような、そんな記号的存在だとも思えてならない。
ということで、彼女けらけら女は、人の心のなかに現れないほうがいい妖怪なわけだ。だから「大丈夫、けらけら女はいないよ」と、自分に対しても、他人に対して、やさしく言えるような空気感があったらいい、その領域がじわりと広がっていくといい。とぼくは思っている。ちょっとややこしいんだけど、けらけら女の存在は、その意味の上では認めつつも、自分のなかからは消し去りたいんですよ。それによって、日々で抱える重みは、いくらかスッと軽くなる、そんな気がする。
「妖怪をのぞけば、暮しと人がみえる、自分がみえてくる」を仮説に置きながら、勝手気侭な独自の研究を進めていくのが、超プライベート空想冊子『暮しと妖怪の手帖』。妖怪を考え、社会を考え、人を考え、自分を考え、現代における“妖怪と人の共存”のあり方を模索していけるようなダイナミズムを持ちたいと思っています(嘘)。
よろしくお願いします。