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3F/長期滞在者&more

人物を描くことについて

長期滞在者

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誰もいない森で木が倒れたら、音はするのだろうか?

聞く人がいる、とは、どういうことなのだろうか?
それはつまり、鼓膜、耳小骨、その奥の蝸牛が空気振動を電気信号に変え、脳に送るということ。では、倒れた木自身は、己が倒れた音を聞いていないのだろうか?





思えばここ2年ほど、小説というものを殆ど読んでいませんでした。小説は、全ての主語が人間です。そうでないとしても、例えば擬人化された動物だったり、高度な人工知能だったり、これら全ては水槽に浮かぶ脳髄の見る夢でした、とか、そういう例外があるとしても、それは人間の別の形であると思えます。そういえば、映画やドラマなんかも、基本的には人間ばかりで構成されているようです。その単純さに、このところ飽きがきたのは事実です。

しかしなぜ、一人称が人間のものばかりなのだろう。私は不思議に思った。というところで、あることに気がつきました。この「私」も、人間の一人称です。つまりそういうことです。そういうことを考える自分も人間であるのだから、小説を書くのも人間であれば、ドラマを演じるのも人間で、それらを鑑賞するのも人間でしかありえないということなのです。自分が人間として思考する以上、「一人称が人間」であることからは逃れられないことがわかってきました。




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表題の「人物を描くこと」についても、だいたいはそういうことです。


絵を描いていることを誰かに伝えた場合、帰ってくる反応の典型例として、「風景画ですか?それとも人物画?」というものがありますが、あれはなんなのでしょう。それはともかくとして、自分の描く絵のなかにはだいたい人間が登場しています。しかし「人物画」というには人物の扱いがお粗末な感じです。自分の絵のなかにいる人物はなんなのか、有り体に言えば「自画像」だと思います。
奈良美智の描く、目つきの悪い少女、あれは奈良美智の「自画像」であると聞いたことがあります。つまり、自画像が書いた本人に似ている必要は全然ないわけです。
では、どんな要素が「自画像」を自画像たらしめているのか? これは個人的な考えですが、自己投影ができる、ということではないかと考えます。それはつまり、描かれた人物の目線で、描かれた風景を見ることができるということではないだろうか。少なくとも自分の描く人物にはそのような役割があります。その割りあてを果たさせるために、描かれる人物は大抵一人です。二人以上の人物がいると、その間に関係が生まれてしまうからです。それでは「自画像」にはなりません。


絵の中の人物は、自画像であり、絵の中に入り込む転送装置です。

ですから、絵の中の人物には、できるだけ落ち着いた、心地よい状態でいて欲しいと思っています。





coca

coca

1988年、長野県生まれ。
coca、または古河郁という作家名で、絵や文章を書いています。
物理、数学、天文学、鉱物、錬金術を主なテーマとして作成しています。


書籍「風景のある図鑑」 https://minne.com/items/1739054

Reviewed by
中村 梨々

自分の存在を自分以外の人に伝えるすべを私たちは生まれながらにして持っています。大人になったあなたはどんな方法で自分を伝えているでしょうか。「あなたは誰ですか?」。

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