8月2日
日曜日。朝、起きる。パンケーキを焼く。しおにリクエストされたミッキーマウスや、スナフキンの形を作る。いくつか失敗して、私が勝手に名前をつける。着替えて3人で買い物に出かける。1週間分の食料を買い込んで、スーパーの隣の100均で、しおの選んだシールを買う。帰り道に魚がとってもおいしい定食屋さんへ。お店のおかみさんから、大好きないくらをおまけしてもらってしおはご機嫌だ。お勧めされた近所のお花屋さんに寄る。鉢を2つ買った。ひとつはしおに選んでもらって、彼女はその鉢をそれは大事そうに抱えて帰った。「お花さん、もうすぐお家だからね」「ちょっとおやつ食べてくるからね」。彼女が選んだのはショッキングピンクの日々草。おばあちゃんが買ってくれたTシャツと同じ色。なかなかな素敵なコーデ。見せてあげたかった。
8月3日
冷やし中華を食べたのは、なんとこの夏初めてだ。ハム、なす、金糸卵、庭で採れたきゅうり、トマト、紫蘇。「夏だ」と家のみんなで何度も言い合う。短い夏。遅くに来た夏。確かめ合うように。招き入れるように。
8月5日
久しぶりにピアノを弾いている。インターネットはすごい。曲を検索すれば、このタイミングでこの鍵盤を押す、というのを動画で作ってくれている人たちが何人もいて、ついていくことで曲が弾けてしまう。ゲーム感覚。楽譜がない世界。ガーナのパーカッションを習ったときに、ひたすら見て真似て、というのをやったけれど、ある意味それに似ている。クラシックの音楽ものの漫画を読むと、楽譜は作曲家からの手紙とあって、それは勿論ロマンがあるけれど、私は、この色々な解釈が軽やかに漂う空間も好きだ。
私がピアノを弾いていると、必ずしおがやってきて、「どいて!」と言われてしまう。最近は「ドはどこなの?」と聞いてくるようになった。シールを貼ろうか。でもドから始まらない世界もあるしなあ。世界を限定しないであげたいなあ。そんなことを考えていると、「しおね、自分の会社の曲作ったんだよー」と大胆にバンバンと鍵盤を叩き始めた。想像力・創造力。会社って何ですか? あなたの世界を覗きたい。
8月7日
アメリカと繋いで、インスタライブ。事前に質問を送ってもらっていて、それについて考える時間がとても良かった。言語を変えて思考を縁取ろうとしたときに、当然、伝えたいのに伝わらないことは出てくるけれど、同じくらいの割合で、そこにあるのに、言語化されていなかったものの存在に気が付く。ぴたりとはまる正解のワードを知らない分、その輪郭を少しでも縁取ろうと、頭が持ちうる言葉を騒動員して、組み合わせて、たとえ話を作ったり、独自の比喩を編み出したりする。久しぶりに、掘って耕して混ぜて捏ねて、土遊びみたいな時間を過ごした。 書いてきた本について話す会、だったのだけれど、実際のトークは、旅そのものや、どうやったらそれが仕事になるのかの話が結構な割合をしめた。そんなもの。でも、この準備に使った時間、書いた言葉たちは、なんだかとても大事な財産になったと思う。
8月10日
梅干しの土用干しを初めてやってみる。友達に連絡すると、干してから蜂蜜につけるのも美味しいと教えられた。コロコロと変わる雲模様。日向と影に敏感になる3日間が始まった。100円ショップで買った野菜干し用のネットは、目の覚めるような青色。ベランダの竿に干すと、くるくる回る。太陽が透けていい感じだ。もっと色々な野菜を干してみたい。夕方小雨が降り出して、部屋に取り込むと、ふわりと香りが広がった。
8月15日
久しぶりに順に本の話を聞いてもらい、大コンサル大会になった。それで気づいたのは、もうどうしょうもなくこんがらがった思考の糸を、自分でなんとかしようとしていた時は、1本ほどく度に、他のものを結びつけてしまったり、絡ませてしまったりという無限ループを繰り返していたということ。
順はそこにあるものの中から、本当に光そうなものだけを、取り出して、深掘りして、リサーチすることで整合性をとって、磨く。そうやって作った器の中に、改めて、ひとつずつ思考やエピソードを戻していけば、と提案してくれる。器を作ること、名前をつけることだけに集中して、徹底的に付き合ってもらう。そしてついに、名前を発見! 私は、高揚感でいっぱいだったけど、彼はぐったりしていた。
8月16日
お盆ですね。どっかドライブでも行きます?なんて話を、家のみんなとしていたけれど、どこにも行かないままに、終わりそうだ。今年初の素麺を食べ、親子3人でスーパーに食材の買い出しに行く。ふわあっと花が咲くように笑顔が広がったしおが、何を見ていたかと思えば、ずらりとアンパンマンのジュース。買ってあげようではないか。小さなおはぎセット、りんどうの花も買って、写真の前に供える。実家にも帰れなかった。
8月19日
今そこにいる? 電話で話せる? Sからメッセージがきて、どきりとする。あと数時間で家を出なくちゃいけない、パソコンを修理に出さなきゃいけないというのに、原稿にきりがつかない。それでも電話をする? 私は聴ける状態にある? この前は、君のためにある人に連絡をとったよ。連絡してみて。それだけ言いたかったという、5分の電話だった。可能性を信じて、広げてくれてありがたいと本当はそれだけ思えばいいのに、その期待に応えられないだろうということに焦り、同時に怖かった。画面に映った彼は、朦朧としていて、向こうは夜で、あたりは真っ暗で、パソコンの光に照らされて、頬のあたりがごっそり痩けていて、だからなのだろうけれど、崖っぷちを垣間見た気がした。今、その闇に触れたら、私は….。
長編を書くとき、私は次第に何かを新しく始めるということが、できなくなっていく。集中しなくてはと、他のことに気持ちを置けなくなる。そうやってまた、大切な人を失うのだろうか。
8月22日
「かあちゃん、まだ起きないで。お父さんと朝ごはん作って、迎えに来るから」
こんな朝が来るなんて。布団の中でゴロゴロと待つ。部屋の朝日が私は好きだ。2面に窓があって、片方の曇りガラスからは光の揺らぎが入ってくる。もう片面の大きな窓の外には、大きな木があって、今は葉が生い茂っている。夜は巨大な鳥の翼に見えて、朝になると、ひと旅終えてきました、というように爽やかに揺れている。どこに行ってきたの、どんな夜を過ごしてきたの。私はね…。夢を覚えている時もあれば、大概は忘れている。私たちはなにくわぬ顔で今日も出会い、隣り合わせに生きている。
8月23日
日曜日だというのに、朝から、悶々と悩んでいる。しおとせせらぎに行って足をひたす。夕方2時間、強引に宣言して、ひとりカフェに行く。ひとりで考える時間がないと、あっても、考え抜けずにいる自分を持て余している。
夜、画面を繋ぐとカシーバがいた。何年も取材をしてきた人。頭はこの感覚をどうしてこんなにあっさりと忘れるのだろう。顔を見れば、声を聞けば、親密さしかないということを。色々と気を回しては、悩んでいたことが吹っ飛んで、ただいつまでもこの人の話を聞いていたいと思う。私が聞きたいことに応えてくれる度、彼女の中の美しい世界が引き出されていって、どうしても伝えたいという気持ちが膨らんでいく。今日の会は、ドラムを教えてもらえる意図で設定されていたのだけれど、その大半を話を聴くことに使ってしまった。この個人としての幸せな感覚と、何かをtakeしているのではないかという後ろめたさに、そろそろ折り合いを、決着をつけたい。業としての書くということ。そのために話を聞くということが、相手の幸せとも矛盾していないという境地にたどり着きたい。
8月25日
作品のために、水の流れや、渦のことばかり考えている。そういう一節を見つけては、もっと水を観察したいと思う。海が見たい。
心の水の流れが滞ってしまうと、命の働きが阻害されてしまう。流れを阻んでいる原因を探して問題解決をすることも大事だが、まず最初に必要なのは、今までになかった新しい流れの水路を作ることで、心が少しでも動き始めること。新しい水路の流れは、今まで行き場がなかった小さな流れを集め、合流しながら、少しずつ強い流れへと育っていく。
ただ同意するだけ、同調するだけでは、お互いが道の鉱脈にたどり着く、真に創造的な対話にたどり着けない。場の倫理と個の倫理は対立するものだからこそ、その二つの両立や共存を目指すことは、矛盾が矛盾のまま同居できる新しい場の創造へと繋がる。(中略)打ち消しやすいものだからこそ、深め合い、高め合う関係性を….
(稲葉俊朗 「いのち は のちの いのちへ」)
8月26日
参加しているとある実験で、5時間ほど無言で過ごす。ゆっくり体の隅々までに意識を向けて、ヨガをして、本当にゆっくりと全身の感覚を使いながら昼ごはんを食べる。それから、一人散歩に出る。その間、なにも喋らない。外に出ると、公園の木の幹に2羽のカラスがとまっていた。
私はカラスが怖い。以前、自転車に乗っていたら、頭の上に急に降りてきたことがトラウマになっていて、できるだけ気づかれないように、そっと通り過ぎる。身を硬くして。いつもは。
今日のカラスは、ただ葉っぱの陰で休んでいるように見えた。時折、世間話をしているように見えた。昼下がりの気怠いこの時間、暑いですね、なんて言っていそうだった。そんなふうに見えたのは、はじめてで、どうしていままでそう見えなかったのかが、むしろ不思議になった。皮膚や耳よりも先に、頭や記憶で聴いていることが、他にもあるのだろう。せせらぎにはアメーバたち。木の幹には怪しげなキノコ。私はこの公園を隅々まで、知っていたつもりだったけど、まだまだ宇宙だ。
受け入れて、体を通して、素直に奏でる。筒のような、楽器になりたい。
8月31日
ヘッドホンを耳に突っ込んで、皿を洗い、寝かしつける。かあちゃんやめてと言われて、確かによくないよなとは思う。けれど、クルミドの夕べがオンラインになったのだ。しかもテーマはモモ。久しぶりに聞きたいのだ。
私が初めて原稿を見せたとき「モモみたい」と言ってくれたのが影山さんだった。あなたは聴くことの喜びを知っている、と。そこから改めてモモを読み、一緒にこんな本を作ろうと決めた。以来、モモみたいに人の話を聴くことで、生きていけるようにと、ずっと応援してもらっている。そのありがたさを噛みしめながら、その先に、なんで、自分はそのことに堂々としていられないのかという問いが浮かぶ。堂々としていればいいのに。
きっと私の中には、わかりやすく役に立つことで安心を得たい、そして、わかりやすく役には立てないことに負い目を感じている部分があるのだ。モモがあのまま大人になっていたら、どんな風になっていただろう。円形劇場に住み続けたのだろうか。ずっと食べ物をみんなに与えてもらっていたのだろうか。
ファンタジーの力。自分がその主人公になったとしてのあれやこれやを想像させてくれる。私の円形劇場はどこだ、本は円形劇場になり得るだろうか。読み手が自由な想像で遊んで、自分の言葉を見つけていく円形劇場としての本に….。会話は音楽だ。聴くの先に、奏でるがあるとするなら、人の話を聴くことで、書いてきた私は、それを読んでくれた人から、また音が生まれるようなものを書けているだろうか。