長期滞在者
日記を書こうと思ったとき、そこにはひっそりと死の予感があった。20代後半のある時期だった。私は周囲と同じように年を重ねていけないと思っていた。検査してもどこも悪いところはないのに、体が言うことを聞かず、唐突に寝込むことがしばしばあった。どうして、とひとり悩んでいた。 無人島に漂着した人間が生き延びた日数を石に削るような思いで、自分はこんなふうに過ごしたのだと書いていた。そのうち、一日を過ごせること…
長期滞在者
増え続ける感染者。呪われた五輪。止まらない咳。丸ごとお祓いして消し去りたいと思っていたら、蝉がみんみんと鳴き始めた。何があってもめぐる季節を、尊いような、言葉では言い表せないなんともいえない大きさを感じる。そのなかには残酷さもある。 日本の夏は喪の季節だ。暑くなるにつれていろんな死を思い出す。今まで触れてきた死と、これからやってくる死。汗をだらだら流しながら、喪に服すときの涼し気な黒い色を思い出す…
長期滞在者
振り返ってみると咳ばかりしている六月。流行り病じゃなくて良かったと一安心したのも束の間、咳喘息の治療が長引いている。 季節の流れや人の気配を家のなかにいるとより感じる。数年前に過労で寝込んだときも、一所で感じられるものを噛み締めていた。畳の湿った匂いや、庭ですくすくと育ってしまった草の青さを何度も自分に焼き付ける。ぼんやりしていると、自分がそのまま消えてしまう気がするのだ。 花を買って自分を慰める…
長期滞在者
祖母が死んだ。感染症のこともあり、私は葬式に参列しないことになった。死に顔を拝めず、見送りもできない。死の実感がないまま過ごしている。 原因不明の咳が続く。なんとか生活しているというより、生活があるおかげでかろうじて寝起きしている。日常のありがたみをこれまでは感じてきたけれど、こんな日常を送っていていいのだろうかと今は疑問に思う。汽車はずんずんと進んでいるのに、途中線路の上でバラバラの部品になるの…
長期滞在者
振り返ってみると目の疲れにやられているこの数週間。 薬局に駆け込んで「目が痛い」と泣きついたら、タクシーの運転手が指名買いするという飲み薬を教えてもらった。最近は家でつい仕事をしすぎてしまい、体に悪影響が出ているひとが増えているそう。 何事にも良い面と悪い面がある。なるべく外に出ない生活を続けて一年以上経つけれど、誰かと直接話したときの温かさをしみじみと感じたり、マスクをしないでくしゃみをしている…
長期滞在者
春。あまりにも落ち着かないこの季節。私をふりまわす花粉。気圧。寒暖差。 よく眠り、散歩したときに出くわす花や草に癒やされて、美味しいものを誰かと食べるときにだけ、人間に戻る。 3月1日(月) 今井君が買ってくれた訳ありみかんを、みんなで「これ、食べれそうかな?」と選別しながら食べる。今週中に食べきらないと危なさそうだ。 3月2日(火) 今日はみんな家にいる日。壁の向こうで純君が仕事しているのがわか…
長期滞在者
部屋にこもって生活していると、それまでは何気なく見ていた出来事が大きく見える。誰かが居間にいる気配。音や匂い。誰かとご飯を食べることの「特別感」。 外に出れば咲いている花や温かさに敏感になる。 近頃、日記を書くことは写真を撮ることに近いように思う。残しておきたい、忘れたくないという気持ちが私のなかで連綿と続く。 家のなかにいても春の訪れを感じることを覚えておきたい。 2月1日(月) 深夜、お弁当の…
長期滞在者
年明け。 どこにも行けないという制約のなかでも、はじめて体験できることが幾つかあった。お雑煮を作ったり、お屠蘇を飲んだり。 我慢の日々だけれど、辛いとこぼすだけにはなりたくない。 昨年の1月の家日記を読み返したら、今と変わらず、側にいる人たちに助けられていたんだと気づく。一層、この場所を大切にしたいと思う。 1月1日(金) 元旦。朝起きて、お雑煮を作る。実家のお雑煮には人参、大根、銀杏、お餅、三つ…
長期滞在者
理想的な年の終え方。早めに仕事を切り上げること。友人と語り明かすこと。旅に出ること。旅先で心に風を通すこと。旅から帰って家族に会うこと。 どれも叶わなかった。失望しているかというと、そうでもない。この家で笑って過ごすことができた。 ため息を吐くと福が逃げるという。けれど、私はべつに逃げても構わない。福はまたやってくるに違いないし、何なら捕まえてみせる。 強かに生き延びようではないか。 12月1日(…
長期滞在者
冬に向かう日々。 流行り病の情報をインプットされた状態で生活すると、誰かに指示されたわけでもないのに窮屈な箱の中で生きているような気持ちになる。そのせいか、誰かと食事をして語り合う時間は心の底からほっとする。 それでも、大掃除の話や年末年始の過ごし方を話し合っているうちに、本当に一年は終わっちゃうの?という気持ちになる。私たちの一年、誰がこんなふうになると想像できただろうか。 明るい未来を描いてや…
長期滞在者
未来が明るいものだと信じて生きたわけでは決してないけれど、だからといってやさぐれた気持ちで生きてきたわけでもない。 ただ今月は、どんどん視野が狭くなっていくような気持ちがして怖くなるときが何度かあった。 どうにもならない、逃げ場のない感覚。 友人と会って、能を鑑賞して、食事をしながらなんとなしに喋る時間があると、その薄暗い感覚が和らいでいくようだった。 やっぱり、人と会わない、外の世界に触れない、…
長期滞在者
束の間の休暇は、久しぶりに海へ。 神奈川県には10年以上住んでいたのに不思議と愛着がわかず、東海道線に乗りながら「本当はもっと遠くに行きたい」と思っていた。けれど江ノ島や鎌倉を歩いていたら、いつの間にか「このへんで良い物件はないかな」と考えはじめている自分がいる。 海に近い土地から離れて8年経つ。いつかまた海を身近に感じられる場所でと思っていたのが、急に芽吹いたようだった。 ただ広い、大きな海があ…