回帰

いとでんわ 第1期(2011年10月-2011年11月)

うつくしさとは一体なんだろう、と長らく考えてきました。それはその時々の好悪でしかないのかも知れない、とかつては考えていました。しかし、今ではそれだけであるはずがない、と強く思っています。

例えば、そこに一本の落葉樹があります。
春に芽を開き花を咲かせ、夏に葉を繁らせ、秋にそれが色づき実も付け、冬に葉は散って新芽が現れる。
どの季節においてもそれはうつくしい。しかし、姿の美もさることながら、その源にこそうつくしさの心髄がある。つまり、そこには一定の時間ごとに同じことを繰り返して成長する生命のすばらしさがあるのです。
樹は静かに、しかし実際には多大な働きを絶えず行いながら年輪を重ねて少しずつ成長していきます。そうやって生きることを全うしている。旱魃(かんばつ)や台風や異常な寒暖といった悪天候に弱らされても、虫や鳥の大量発生による食害や人間の文明による公害に苦しめられても、樹はどこまでも樹であり続けようとするのです。
他の動植物や菌類、鉱物や水や空気などについても同様です。ただそれ自身であり続け、同時に世界の連環の一部でもある己であり続ける。そして、やはりうつくしいのです。

人もまた人として生き続けることを全うすればうつくしくいられるでしょう。
それでは、人として生きるとはどういうことでしょうか。多彩多様な思考や行動をとれる人という生き物においては、各々によって異なる答えを持ちうるでしょう。しかし、重要なのはその答えのかたちにあるのではなく、そこへ向かってより良く生きようとし続けることにあると思われるのです。
望ましいことも望ましくないことも容赦なく起きる現実において、挫けずにそれを続けることは容易ではありません。世界や己の至らなさ、醜さに何度打ちひしがれても放り出したり逃げ出したりせず、時間を要することになっても必ず再び立ち向かう。そういった強さが必要なのです。
正しく、真実であることがその原動力になります。そうしていると、屈託のない透みきった心でいられるので、どんな苦境にあっても、誰から何を言われようともされようとも侵されることはなく、壊されることもないからです。
しかし、その状態で殻に閉じこもって外部を遮断していると、往々にして自分勝手になり過ぎてしまいます。だから、絶えず自分や世界を観察して知り、人やものごとと関わり合ってそれらの正しさや真実が本当なのかを度々問い質すことも忘れてはならない。そして、それを改正し続けることで広い世界のなかにおける己の最も活かせる状態をできるだけ永らえさせるよう努めねばなりません。

つまり、より良く生きようとすることに終着はないのです。困難ですが、命を懸けるだけの価値は十二分に、いや、何百分にある。それは人生をうつくしくすることであり、火花や日の出のように輝きあがる瞬間を経て、あるいは丁寧に生活の層を重ね続け、永遠に通じる結晶化を可能にすることだからです。
そして、そのうつくしさは自分を含めた人を感動させるものであり、絶えることのない情熱、あるいは体温に満ち満ちたものなのです。それは本当のもの、つまり良さと悪さとそのどちらでもないものごとが一緒くたになって、それでもなお良さへと向かおうとする、生命に溢れたものです。

生きることと表現をすることには終わりがありません。死ですらも完全に終わらせることはできず、死してなおそれらを続けられることでしょう。
これからも自分は己の体で、心で、そうすることを選びとっていきます。自己を超えながらより濃密に、より広大にし、それらを活かし続けることを諦めません。

さて、最終回にして終着させない姿勢という連載第1回の主題に回帰することになりました。しかし、それは不動だった場合とは全く異なります。なぜなら、一回りして帰るという過程がとても有意義に違いないからです。順路や寄り道を経るその体験によって同じものをより豊かでより確かにすることができるに違いないからです。この全9回にわたる連載にはそういった道程がありました。
改めて、予想したよりもはるかに大きなこの一周をつくる機会を下さったいとでんわ主催の朝弘佳央理さんとマスナリジュンさんに感謝の意を表します。そして、様々なことを考えるきっかけをくれた友人や知人、ものごとの全てにも感謝を。
苦しいからこそ、たくさんの大きな発見に満ちた実りある二ヶ月間でした。自分はこれからも倦まず弛まず、いつまでも何度でも回り続けていきます。

読者のみなさんにとってもこの連載が心を巡らせる機会となり、それぞれの大切なところへ行き着く、回帰する助けになることを願います。

本当にどうもありがとうございました。