ポスト20111004

いとでんわ 第1期(2011年10月-2011年11月)

文章を書き、音楽を作ってうたう、演奏する。それらを生活とし、それらが生活となっている期間がいつのまにか十年に達そうとしています。それは必ずしも長い年月とは言えないかも知れませんが、これからも生き続ける限りはそうし続けることでしょう。

書くこと、作ること、うたうこと、演奏することが人生そのものであると常々感じ、思い、考え、そして実行してきました。なぜなら、それが自分自身の存在と、自分以外の他者や自然・人工物の全てを含めた世界と直に結びついているからです。それら両方自体とそれぞれとの関係を広げ、深め、豊かにするものだからです。そして、ありったけの、時にはそれを超える力を要し、大きなよろこびを生むものだからです。
ただ表現をし、何かを作っているだけではそのように成りえません。しかし、ある姿勢を保ってそれらに臨み続ければ、ある年月を経て、あるいはある瞬間に突如として全く未知であった自己や世界を実現する、もしくは発見することも可能である、とこれまでの経験をもとに確信しています。そして、それは自分一人に限らず、生きているかぎりは誰もが実現しうることであり、何らかの芸術活動をせずとも実現しうると確信しているのです。

では、その姿勢とはどういったものでしょうか。一言で記すと、それは「決して終着させないこと」にあります。

まずは、世界の見方や感じ方を終着させない。
つまり、いつまでも好奇心や探究心を失わず、世界を成り立たせている事物のもつ豊かさに心と体を開くことです。あらゆる人や動植物、鉱物や空気や水、日用品や建築や芸術作品などは多くの性質から成り立っていて、しかもそれぞれが関わりあうことによって別の姿や性質を現します。それらを知り尽くそうと思えば一生をかけても足りないし、それらに対する発見もまた一生を通じてなくなることはないでしょう。
最も危険なのはそれらを知り尽くしたかのように勘違いすることです。住み慣れた町も、よく通る道も、それどころか毎日接する機会のある自宅の庭でさえも、時間によって季節によって天候によって発見のないときはないのです。光と影の様子、太陽や月や雲のある空の様子、空気や風の様子、植物や動物・虫たちの様子、往来する人々の様子、それらのもつ音や匂いや感触…そのときどきの自分の心境や視点によって、それらはさらに大きな変化に富むでしょう。ましてや国土や地球、宇宙はずっとずっと広い。だから、いくら長く生きても知り尽くせるはずがない。そして、それはとてもよろこばしいことに違いないのです。

次に、自己の生き方を終着させない。
これは先に記したものと重複するところも多いですが、自己の思考や行動において未知へ踏み込むのをやめないことです。これで本当に良いのかと自問自答することを忘れず、世界に対すると同じく自身に観察の心を向け、自己をより良く広げようとし続けることです。
その行動の一例として、自分の所属するバンド“立体”の『青』という楽曲の演奏を挙げます。

草花がゆらぐ
伸びて、曲がり折れ、ゆらぐ
白い雲をとらえる前に通りすぎる
土と緑と空を

水面(みなも)の縁に照り映える陽の光
湖の水中から見上げたときの空の青さ、青さ、青さ

青さ

波のかたちをそこに見る、そこに見る

青さ

空の青さ

水の青さ

波の青さ

この曲の和音や上記の詞は基本的に固定していますが、その展開や演奏の細部には絶対にこうしなければならないというところはない。その詞の広がったところにあれば展開や細部はどうなっても構わないし、稀にしかないことですが、ライブ演奏中に新たな「青さ」が曲に付加され、詞が変わったり増えたりしてもいいのです。そして実際に、演奏は回数を経る度に変わっていったし、歌の最後に現れる空の青さ 水の青さ 波の青さという詞は演奏しながら加わっていきました。
自分は常々、それを行う人が成長していくように、作品もそれに伴って、あるいは別のかたちで成長して然るべきだと思っています。特に音楽の曲のように、年月を経て何度も行われるものにおいては。
このように、文章を書くときでも音楽をするときでも未知が現れうる余裕や余地を残し、それを活かすことを意図します。そうすることで、自分自身も作品も生き続けることができると考えるからです。
そして、表現に限らず、生活のあらゆる場面でそれを発揮するよう心がけます。ごはんを食べるときに米粒の集まりをしげしげと眺めてみたり、歯の動きを少し緩慢にして口に含んでいる茄子やりんごの食感を意識してみたり、もしくはシャワーを浴びるときに体から滴り、流れおちる水や泡の様子を観察してみたり、目をつむってその音や感触に意識を集中してみたりする。そういった思考と行動によるちょっとした工夫の積み重ねによって生活はたのしく、実りあるものになります。

さて、以上が自己と世界の両方を広げあう姿勢をもつ方法の概略ですが、自分は文筆と音楽活動をしているので、そこに再度焦点をあてて、この文章の結びとしたいと思います。

ここまでで記してきたように、表現や活動に終着は決してないですが、ときどきに落着はあります。
表現や活動のかたちが成熟し、いくら未知へ踏み込み続けようとしても、これまでの方法や在り方では自己やそれの捉える世界を活かしきることができないという状態です。その時期がいわゆる転機というもので、それはそこに差しかかった直後には見えづらくても、嫌になるほど直面したり、少し距離を置いたり、後になってから振り返ったりすると明らかになります。
そこでするべきは、表現の原点からそこまでの経緯を念入りに思い返して再検討することや、長い葛藤の続く数多くの試行錯誤を積み重ねること、いつもなら絶対に行き着かない行動をしたり状況に跳びこむことなどですが、どれもこれも生半可な態度で臨んでいては進化を成しえない。しかし、そういった苦しい期間にあっても逃避せずに立ち向かい続ければ、いずれ光明が差すものです。…と書いたのは、自分がまさに今現在音楽においての転機に直面し、これまでの表現のさらに奥へ心身を進めたい時期にあるからです。そして、そこへ向かう態勢を強めたいと考えているからです。

さて、連載初回にして長文になりましたが、次回からは以上の文章に通じる表現の実践を公開していきたいと考えています。そのなかに日々の思考と行動の移り変わりが現れれば、そしてそれが自分自身にとってもご覧の皆さんにとっても未知のものになれば、それほどよろこばしいことはありません。物語あり、即興演奏あり、弾き語りあり、雑文ありの多様な連載にしていきたいと思うので、今後二ヵ月間どうぞよろしくお願いします。

最後に、これ以上なく適切なタイミングで連載の依頼をして下さった編集長の朝弘佳央理さんと、ここまでお読み下さった皆さんに感謝の思いをお伝えします。
本当にどうもありがとうございます。
それでは、来週の火曜日にまたお会いしましょう。