冬の雨

第6期(2012年12月-2013年1月)

はじめておつきあいした人の名前は富永くんという。

私の生まれ育った場所は福島県郡山市というところだ。
誰が言い出したかわからないけれど、東北のシカゴとも東北のウィーンとも呼ばれていたその街は活気のある街だった。
私はそこに「そぐわなかった」。

可愛げのない子供だったと思う。
幼稚園でも小学校でも教室の片隅で本ばかり読んでいた。
友達は少なかった。頭でっかちな子供で世を斜めに見ていた。
自分なりの正義と美意識があってそこから外れるものたちが許せなかった。
例えば。2時間目の少し長い休み時間、全校生徒で校庭をぐるぐると走る。
何周走ったかを壁に貼られた表にシールで印をつけていく。
大嫌いだった。
何度もサボタージュしてこっそり屋上の手前の階段の踊り場で本を読んでいた。

それが大嫌いだったのには理由があって。
ひとつは水槽の中の鰯みたいにぐるぐると狭い校庭を走るというのがバカみたいで美しくないように思えたこと。
もうひとつは足が悪くて走るのが好きじゃなかったということ。だ。

自分の障害を話す時に私は「足が悪い」という表現をする。
こういう言い方をするのはあれかもしれないけれど、子どもの頃の私にしたらそれはとても中途半端な障害だった。
だから「障害」ではなく「足が悪い」と言ってしまうのだと思う。
尖足と名づけられたその足は、アキレス腱が短くて硬い。見た目には「つま先立ちで歩いている」というだけのものだった。
ぴょこぴょこと歩く。
見た目は確実に人と違うのに、同情されるほどの差異ではない。むしろ滑稽だ。
小学生の時に私につけられたあだ名は「つま先女」だった。

でも「つま先女」とからかう学年の違う男子たちよりも、大人の方が好きじゃなかった。
全校での体操の練習の時につま先立ちで歩く私に「何をふざけている」と怒鳴った先生は後で「謝罪」しに来た。
陸上競技会で周回遅れで走ってゴールするとスタンドから拍手が沸いた。
そういうものがなんだか全部好きじゃなかった。
なんで?と聞かれたら今もわからない。
まだ子供の私に向かって謝りに来てくれた先生はとても誠実だと思うし、周回遅れでぴょこぴょこゴールする私に拍手を送る人たちも素直なのだろう。
でも私は嫌だった。
それならば怒ったことをずっと「しまった」と思って貰っていた方が良かったし、足が遅いと嗤われた方がマシと思っていた。

―――だから可愛げのない子供だった。

中学校に入った時、私は手術をすることになった。
このままの足では将来的に骨盤が歪んで子どもを産むのが困難になる、という医者の診断がくだったからだ。
手術は身体の成長が止まった頃、でも中学3年になると長期の入院は受験に差し支えるとの判断で中学2年の春と時期は決まった。
今考えると両親は大変だったと思う。
リハビリに遠い病院に自転車の後ろに私を乗せて通う母。
入院にもその他の色々にも、そういった何かを持っているということは他の子供よりもお金がかかるということだ、ということも今になればわかる。

桜吹雪と入学式なんて絵があちこちに氾濫しているけれど福島では入学式の時期にまだ桜は咲かない。
私の入院はその桜が咲く前の春に始まった。
両足のアキレス腱を細く切って長くして改めて繋げる。
こう書くと図工みたいだけれど、違うのはそれは10時間に及ぶ長丁場だったということ。
手術後の麻酔が切れた痛みと戦う一週間が終わり、私は親元を離れて7ヶ月間をそこで過ごすことになる。
そこは病院と障害を持った子供たちの寮施設と学校が一つになった場所だった。
私は初めてそこで「そぐう」感覚を知った。

施設はA棟とB棟があって、A棟は比較的症状が軽い子供たち、B棟は症状が重い子供たちとわけられていた。
学校は施設の子供たちだけではなく家から通いの子供たちも来ていた。
太ももまでギプスで固められた私はA棟に振り分けられた。
A棟とB棟への振り分けの区別は「比較的症状が軽い」ではなく「比較的意思の疎通が簡単にできるかどうか」だったようにも思う。
B棟からは施設内の学校へ通う子供は殆どいなかった。

私は富永くんを「おじさん」と呼んでいた。
子供だけの施設なので高校を卒業したらそこは出なければならない。
高校3年生だった彼は施設の中で年長者だったし、治らないものを抱えて長期滞在している様は「長」のようだった。
部屋は全て6人部屋で男女別大まかな年齢によって振り分けられていた。
脊髄損傷、脳性麻痺、筋ジストロフィー、みんなそれぞれの病名を持っていたけれどそれはそこではあまり意味を持たなかった。
ただ歩けない、ただうまく物が持てない、ただそれだけのこと。
寮生活のようなものだったので小さないざこざはあったけれど、大きなトラブルは無かった。
私は「外」の世界よりそこでの方がのびのびと過ごしていたように思う。
昨晩録画したトレンディードラマをみんなで感想を言いながら見る。
誰かが持ち込んだ水鉄砲でギブスも車椅子もびしょびしょになって怒られるまで遊ぶ。

富永くんとは音楽の話をたくさんした。
消灯後こっそり男子の部屋に看護婦さんの目を盗んで遊びに行った。
THE BLUE HEARTS、岡村靖幸、BOOWY、UNICORN、JUN SKY WALKER(S)、永井真理子、LÄ-PPISCH、渡辺美里、大江千里、BARBEE BOYS。
退院した後、私が買う雑誌は「明星」から「PATi PATi」と「GB」になった。

太ももまでのギブスが外れて足に入っていた太い針金が抜かれて車椅子から降りても、歩けるようになりました、というわけではなく。
私はがしゃんこがしゃんこと音がする舗装具をつけて元居た中学校に戻ることになる。
そしてまた教室の隅で本を読む日々になった。
富永くんとはたまに電話で話をした。施設の10円を入れてかける公衆電話から定期的に電話がかかってくる。
富永くんも高校を卒業してあの守られた寮のような施設を出る時が近づいていた。

高校を卒業して施設を出た富永くんは白い車で私を迎えに来た。
足が動かなくても車の免許は取れると私はその時に初めて知った。
働き始めたと言った彼に私はあまり詳しく聞かなかった。彼もあまり詳しく話さなかった。
ただ電話と。1ヶ月に一度くらい彼の車で私たちは会って、ご飯を食べに行ったり買い物に行ったりした。
会うたびにカセットテープの交換をした。その時好きな曲をつめてテープを交換する。
私の誕生日の日。
その日はカセットテープだけではなく、ピアノの形をしたジルコニアのたくさんついたブローチをもらって、車の中で隠れてキスをした。

私の足の舗装具が外れて、どうにか受験を越えて私は地元の進学校と言われる女子高に入学した。
桜は咲いていなかった。

おつきあいしましょうと言ったわけではない。
それでも。初めてつきあった人は?と聞かれると私は彼を想い出す。

おつきあいしましょうと言わなかったように、別れましょうとも言わなかった。
ただテープが手元に届く期間はだんだんと長くなった。

私は足が治った代わりのように、左耳の聴力を失った。

 


「額賀さんには冬だよね」とここの管理人のかおりさんから、メッセージを頂いた。
「光栄です」と返した。
このアパートメントに住むということは、あの眩しい春夏を過ごした優しい人たちが居た場所を想い出す。
欠落は外に出たら違和感を持たれるかもしれないけれど、そこでは、誰もが持つ当然のもの。
この場所で冬を過ごせることを幸せに思っています。