ワイズクラック・フォー・ビギナーズ

第7期(2013年2月-3月)

これは私が4歳か5歳のとても小さかった頃の話です。

左、右、左、まっすぐ行って坂、上りきって左。
家を出てから幼稚園へ行くまでの道のり。
まっすぐ行って左、ちょっと右で左行って、そのあとまっすぐで坂あがって左。
どっちを行ってもいいし、それとは違うほそ道を通ってもいい。
ほそ道はよその家の裏を通って行く。柿の木やびわ、いちじくの木があった。
歩いて5分とかからなかったおかげで、幼稚園から勝手に帰ってきたりした。
迎えに来てくれた先生の目をくらますために畑にしゃがんで野菜に混じったり、裏山に逃げたりした。
「つかまえるのがまた大変。それで、つかまえたら何て言ったと思う?」
「さぁねぇ」と私。
「トイレに行くために帰ったんだって、言うんよ」
(トイレには紙の精がいて、決まった時間にわたしを呼ぶの! )
とりあえずの理由は言ったけど、それがほんとうかどうかは言った本人にさえすでに確かめようがない。
お転婆でわがままな娘だったこの頃の私の記憶のほとんどは母から聞いた話でできている。

発表会は3匹のこぶた。
私の役は1番小さいこぶただった。
大きいこぶたのワラの家が飛ばされると、次は中くらいのこぶたの木の家におおかみがやってくる。
木の家も木っ端微塵に吹き飛ばされ、ふたり、いや、ぶたりは小さいこぶたのレンガの家に逃げ込んだ。
簡単だね、とおおかみに扮した男の子が思ったかどうかはわからないが、彼は堂々と演技をこなした。
「こんな家、ひといきで吹き飛ばしてやるぞ。がおー、がおー」
レンガの家はびくともしません。おおかみは一層大きな声を張り上げました。
「がおー、がおー、がおー、ふぅーふぅーふぅー」
おおかみは何度も深く息を吸い込み、これでもかとレンガの家に吹き付けます。
「なにするんよ! 」
突然、ひとりの小さなこぶたが弾丸のようにレンガの家を飛び出すとおおかみを襲い、その場で一騎打ちになりました。
舞台の袖では先生たちがあわただしく、お話しを元に戻そうと身振り手振りでこぶたやおおかみに指示をしますが、そんなこと知ったこっちゃぁありません。
(戦うこぶた! )
ほんとうに恥ずかしかったんだから。母がぽつりと言いました。

そんな私でしたから、普段の生活でも母にはかなり気苦労をかけていたようで、当時女性の園長先生に悩みを打ち明けたと言います。こんなわがままな子、これから一体どうなるんでしょうか。または、やっていく自信がないのです。とか。
園長先生は破顔一笑。こんな子供さんが将来うんと頼りになりますよ。

私の記憶にはない、その一言が母を勇気付け、母もまたそのようにこれまで私を見守っていてくれた。
そう思うのは結果であって、その時、園長先生は私が大人になったときのことまでは思っていなかったかもしれない。
子供のわるいところもあればいいところ、母親の一生懸命さを見て、大丈夫ですよと言いたかったのではないかと思う。
未来を予告するのは預言者でも最強占い師でもなく、その人を見守る誰かの願いを込めた一言だった。

おとなしすぎるほどおとなしくなった、と母が多少不満そうに口にする。
暴れん坊であればそうでないように、おとなしすぎればそうでないように、母親というのは子供がどっちを向いても向いていない方に無性に気持ちが惹かれてしまうものなのだなぁと思う。

とは言え、いつ、また、裏山に逃亡する衝動に駆られぬとも限らない。
裏山ならすぐそこだけど、ゴールド・コーストなんてことになったらザトウクジラに乗って母がつかまえに来るかもしれない。
「クジラって大きいのねぇ。 この世のものとは思えないわ」
(人は変わる。だが、たやすく変わったりしないのもまた人である! )
紙(かみ)やおおかみのせいでなく、次はもうちょっと気の利いた言い訳を用意しておこうと思っている。

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はじめまして。
2012年6-7月にこのアパートメントで暮らしていた臼井史さんが声をかけてくださって、2013年2-3月のあいだ住むことになりました。
何を書こうかと考えたとき、自己紹介になるものをという気持ちが湧いてきました。
同じアパートに住む人に、このアパートを訪ねてくれる人に、こんにちは、と話しかけるような気持ちで書いていきたいなと思いました。
この文章を書くにあたり、写真を掲載したくて、昔のアルバムを引っ張り出しました。
白黒の写真のなかをしばらくは左に右に歩いてみました。
その道は遠い過去に置いてきたものではなくて、体の中にいつもあるものでした。
今も自由に駆け回ることができる。
真っ直ぐに倒れることもできる。
自分は忘れてしまっていても、小さい頃に掛けてもらった言葉に繰り返し思い起こされる自分がいる。
季節のように。春が今年も訪れてくるように。
2ヶ月のあいだ、どうぞよろしくお願いいたします。