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2F/当番ノート

父の庭

当番ノート 第7期

父のことを書こうと思ったのですが、気持ちの整理がつかないままで1週間が過ぎてしまいました。昨年、島根年刊詩集に提出する予定で、秋に書いた散文を置かせてください。

「高い空の下に椅子を置く」の、梅の木が今満開です。

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朝の空気が冷たい炎を孕んでやってくる季節。晩秋には早いが、山々は日毎に色を変え賑やかな秋の装いになってくる。庭の木々も伸び尽くし、我が家はすっかり緑に埋まった。

冬がやってくる前に、庭の剪定が始まる。1日目は松の木。黒い足袋でするりと松の木に上がり、てっぺんから松の葉を梳いていく。切られた所の視界が開き、くっきりとした青空が見えた。一面の緑だった松の天井から現れる青い空に、透き通る生きた時間が流れていた。

庭師さんが来る前までは、剪定は父が1人でやっていた。心臓の手術をしたあとだったので、長い時間は木に登れない。木と自分の体に命綱を縛りつけて、小1時間やっては休み、またやっては休みしていた。3ヶ月をゆうにかけて、父の庭師の仕事は続けられた。いたしい、いたしい、と言いながら、絶対に家族にさせない。手伝おうかと言えば、お前が脚立から落ちたらいけんけぇと言う。父さんのほうがよっぽど危ないのに、と思う。若い時に肺を患ったため、呼吸が人の半分くらいしかできんのんじゃ、と聞かされていた。そんなに本気でやらんでもいいんじゃないの。倒れるよと脅迫気味に迫ればにやりと頬をゆるませて、まだ死なんでぇ。口を尖らして笑う。ドリフのコントで、おばあちゃんに扮した志村けんさんが言っていた「まだまだ死にゃあしないよ」を真似ているつもりだ。事あるごとに父は「死なんでぇ」を繰り返していた。そのセリフにどこかほっとさせられた。やがてやって来る死の前で、私は父の言葉を子供の頃のように信じていた。

庭をついたのは、私が高校に入学する年だった。それまで住んでいた家を新築し庭を作ることになった。

まず植えた木が土に落ち着くまで、その木が影になり日向になりして土が動き出すまでそのあいだに草を取り飛んでくるゴミをより分け、猫や小動物を追いやり(土を掘り返したり糞をする)秋には落ち葉を拾う。家の裏手にお寺があった。竹が植わっていた。コナラやクヌギ、ハナノキやハゼノキから浮遊する葉が庭に降り積もる。時には愚痴になりながら格闘していた。何か大きなものに立ち向かっているような、勢いと信念が混じっていた。

以前からあった飛び石は位置を変えて置かれ、新しい石は滝になった。滝が落ちる場所にはたくさんの黒い小石が敷き詰められた。水に濡れると黒く光った。水かさが増すと深い底を映しているように見えた。鹿威しから垂れた水が溜まる小さな池にめだかが泳ぐ。灯篭は梅の木のそば、松の木のそば、椿のそばに護衛のように立っていた。明るい日には目立たず、暗い日には灯るように決められたところでじっと。それぞれの場所があってそれぞれの緑の濃さがあって、庭は春夏秋冬、姿を変えていった。

父が膵炎で入院した。治療のためにお腹に穴を開け、管を通した。どす黒い液体が管を滑り落ちていく。それと同時に意識が父から離れていった。肺炎や腸炎を併発し、血圧が下がり続けた。体中の血液を夜通し入れ替えた。人工呼吸器がかろうじて父の体を生かしていた。遠くから何人も親戚が訪ねてきた。誰もが最後の別れと思った。季節は冬になった。淡い朝の光と濃い夕暮れが差し込む部屋で、父は黙って眠っていた。

夜の病院のトイレはとても明るい。病室よりも生きているほうに近い。手を洗いながら考えた。父はどうなるのだろう。良くなる可能性が減っているような気がした。だけど悲しいと思わなかった。父は死なないのだから。

シャワーで看病の疲れを癒したのもつかの間、母が夜の付き添いに着替えやタオルを用意して病院に来ると、入れ替わりに私が家に帰った。誰もいない家。鍵を開けてしんとした空気に「ただいま」を言う。自分の声が家の中のどこにも漂着できない。床も壁も天井も、どこにもつながらない宇宙。台所のステンレスがやけにつやつや話しかけてきそうだ。芥子色のカーテンが迫ってくる。どこに帰ってきたんだろう。すぐさま、家中の電気を全部点けて回る。座敷から庭を見る。月明かりに照らされたやわらかい闇がある。怖いことはひとつも起こっとらんけぇのぉ。父の声が聞こえたような気がした。

退院して何年か過ぎた頃、父は一度だけ庭師さんと話をしていた。松の枝を切る難しさやどう切れば木が生きてくるかというようなこと。庭師さんから聞いた、私の知らなかった父と庭の話。

剪定が終わり、梅も松もきっぱりした枝を空に広げた。松の木の下に母が石蕗を植えていた。黄色い花が咲いている。さるすべりはつるりんと白い棒状の椅子になった。柘植が何本か枯れたけど苔はとてもきれい。躑躅はぐんと背が高くなった。

先日、母が転んで、その際に躑躅の太い枝を折ってしまった。その枝を支えにしたので、母は擦り傷だけで済んだ。母さんは転びやすくなった。父さんが夢にも出てこんって言ってるよ。牡丹が相変わらず枯れそうで、肥料をやったけど枯れ木みたい。でも先っちょにぽんと赤いつぼみが飛び出している。ふたつあったよ。
父さん。
  

中村 梨々

中村 梨々

2015年6月6・7日、福岡ポエイチ、無事終わりました。ありがとうございました!

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