昨日、初めて救急車を呼んだ。
私のためではなくてお兄ちゃんのために。
兄の意識ははっきりとしていて、
「まり、」
そう一言。いつものように部屋の戸の外側から声をかけられた。
「なーにー」と、これまたゆっくり私が返事をすると反応がない。
何だろうと思って部屋を出ると苦しそうに屈んでいた兄が、「救急車呼んで」と。
電話をしたあと、救急車は思いのほか早く到着した。
結果から言うと兄はそこまで大事にも至らず、一日か二日の入院で済む程度の感染症だった。
でもそれを聞くより前に私は、なぜか大丈夫だろうと思っていた。たぶん兄が冷静だったからだと思う。
もしくは、私にはまだ家族、ましてや自分のお兄ちゃんがいなくなってしまうことなんて本当に、
ありえないと思うくらい、想像がつかない。
お兄ちゃんがいない私の人生。それが想像つかない。
私にはお兄ちゃんが二人いる。
幼い頃から長男のことはゆう兄、次男をしょう兄と呼んでいる。
長男は「ゆうすけ」だからゆう兄、次男はなぜだったか、小学生のころに
「俺は上の兄ちゃんよりも小さいから、小兄って呼べ。」
そう言われた記憶があって、それから私の中で次男は「たかゆき」ではなくずーっと「しょう兄」だ。
私が中学校に上がるまで、上の学年の知らない男の子に
「あ、若の妹だ。」
と呼ばれるのが少し嫌で、でも嬉しかった。
私の地元は東京だけれど人の少ない小さな町で、中学でも塾でも入学早々先生から言われることは
「あーお前、若林の妹か。」
私が育っていく中で、私の立つすこし先には常に兄二人の存在があった気がする。
しょう兄にはいつも泣かされた。
基本的に意地が悪くて、相性としても最悪で、どうしてそんなに嫌なことばかり言ってくるんだこいつ、と当時思っていた。
私としょう兄がけんかをし始めると、仲裁に入るのは長男であるゆう兄の仕事で、それでも騒いだままでいると最終的には父の怒りの鉄槌が飛んできた。
父は私たち兄妹の中でも恐怖の存在で、神経質で短気、悪いことをしたら叩かれるし蹴られる。それが当たり前だった。
そして結局一番に怒られるのはゆう兄で、しょう兄と私はその影でびくびくとしていた。
今になってゆう兄は言う。「俺が一番損な役回りだった」と。
そんなゆう兄が私は大好きだった。
私が高校生になってからは冗談めかしてブラコンですなんて言っていたけれど
本当にゆう兄が好きだったな。しょう兄が嫌いな分、余計に。
ゆう兄は高校に入ると週ごとに髪の色が変わるようになり、バンドを始めたりした。
大学には行く気がないらしく、美容の専門学校に行くと中学から決めていたらしい。
兄がうちを出て行く日は、うまく言えないような寂しさだった。
お母さんと一緒に玄関で「いってらっしゃい」と言ったけど、
もうしばらくは「おかえりなさい」って言えないんだ。それが何だか納得できなかった。
それからずっと時間は過ぎて、当たり前のような毎日を過ごして、気付けば私ももう21歳になった。
幼い頃三人で並んで撮った写真。1991年の12月ということは、私が生まれてまだ10日ほどしか経っていないときだ。
そこから20年が過ぎたなんて。早かったのか遅かったのか、分からないけどそういう次元じゃなくて、
ああ、私はここにいるんだな。と、それしか、ない。
ゆう兄は今、結婚をして私と同じ町に住んでいる。
しょう兄は決まりかけていた内定を蹴って、漫才師になった。
私は美術大学に進学して、絵を描いている。
この20年の中で、たくさんのことがあって、たくさん悩んで笑って傷付いて、
そうした上に私がこの道を歩いている。
それと同じように兄二人にもそれぞれの20年と数年、さまざまな出来事があったんだろう。
私が歩く道の先には必ず兄の存在があった。
ゆう兄がバンドを始めなければ、私も音楽に手を出したりしなかったし、
しょう兄が夢を追いかけると決めたことは、少なからず同じように不安定な道を選ぶ私を安心させてくれた。
ゆう兄は美容師になってからしばらくして体を壊し、普通の会社員になったけど
奥さんと二人会話する姿や雰囲気は、うまく言えないけど私にとってとてつもなく憧れの輪郭をつくっていて、
どんな道をたどってもやっぱり、兄は私の憧れなんだと思う。
奥さんは若林家にはないサバサバとした性格の持ち主で、今はゆう兄の代わりに私の髪を切ってくれる美容師さんだ。
初めてできた「お姉ちゃん」、でもまだ恥ずかしくて名前で呼んでしまう。
ここ数年でやっと、兄妹三人で飲みに行くようになった。
幼い頃好きだったゆう兄はブラコンってほどでもないけど今も大好きなお兄ちゃんで、
けんかばかりで嫌いだったしょう兄は今となってはゆう兄より距離が近くて、なんだかんだ好きだと思う。
私がこれからも生きていく中で、別に毎日会うわけじゃないし、たまに誕生日なんかも忘れてしまうんだけど
それでもやっぱりこの二人、ゆう兄としょう兄が居ること。これは私にとって絶対なのだ。
お兄ちゃん二人にとって私はどんな存在だったんだろうか。
ちょっと気になる。
けど恥ずかしいから聞けないな。