雲のミルフィーユ #06 “共食い愛好家”

第14期(2014年4月-5月)

1989年7月4日 最高気温26℃ 最低気温20℃ 小雨

 今朝、ピゴの元へ行くと珍しく不在であった。
 ドアに貼り紙があり、見ると見慣れた筆跡で「先に入って待っているように」とあった。
 中へ入ると淹れたての紅茶の入った大きな硝子のポットが置いてあり、私がいつも座る席と、ピゴの椅子の前にカップが置いてあった。
 ピゴの椅子のすぐ隣には二回りほど小さな赤い硝子のカップがあった。多分、クローナの為に彼がこしらえたものだろう。私は過去に2度、彼がバーナーとガラス棒を使って、指の無い1対の翼を器用に動かして赤や青の硝子玉をいくつも作っているのを見ている。ペンギンが眼の保護用のゴーグルをかけてバーナーと硝子を扱う様は実に奇妙であった。それを指摘すると、彼は机を翼で叩いてモールス信号で「火を使えるのはヒトだけだと思い込むのはよくない」と言った。「その驕りが自らの足下を掬うのだ」とも付け加えた。

 ドアをノックする音がして、黒い頭にブルーグレーの背中、側頭部にオレンジ色の模様が描かれた背の低い彼、ピゴが帰ってきた。何やら薄茶色の紙袋を抱えている。どこかで買い物でもしてきたのだろう。このペンギンは動物園の外でもよく知られた存在だ。街を出歩いていても、挨拶をする者は居ても驚く者は居ない。
 しかし、彼のそばにいつも付いているはずの恋人であるクローナが見当たらない。
「クローナはどうした?」
 そう訊くと彼は紙袋の中を見せた。
 中から大きなフランボワーズが勝手に飛び出してきた!
 思わずのけぞると、ピゴはクチバシを両翼で抑えて笑いを噛み殺していた。よく見るとそのフランボワーズは彼女、クローナだった。真っ赤な中に金色の光沢のある鱗、シフォンのリボンのようにたなびく尾ひれがとても見事な金魚だ。彼女はピゴの抱えた紙袋の前で何か急かすようにヘアピンカーブをいくつも描きながら泳いでいた。

 何を買いに行っていたのか、と訊くとピゴは紙袋の中からビニールに包まれた真っ赤で艶やかな林檎飴を取り出した。ああそうか、とそれで合点がいった。林檎飴は彼女の唯一の好物と言える食べ物であった。
 机を囲み、私とピゴは紅茶を啜り、クローナは林檎飴に夢中になっていた。林檎飴と同じ大きさの魚類がそれを突つく様は奇妙に美しく、私と彼はただぼうっとそれを眺めていた。
 ピゴは彼女が林檎飴を食べることを、いつも「共食い」と呼んでいた。確かにその光景は「共食い」以外の何ものでもなかった。

「彼女との出会った時の話、まだ聞いてなかったね」
 そう切り出すとピゴは「聞きたいか」と問いかけるようにこちらを見た。
「聞こう」
 と返事をする代わりに私は手を組み直し、前に身を乗り出した。すると彼はいつも使っているノートとペンを取り出し、語りはじめた。

 彼女との出会いは突然だったと彼は言った。
 この動物園での生活を始めて数ヶ月が経過しようとしていた頃のことだった。その頃はまだ今ほど室内の設備が整ってなく、樫の木の大きな机と椅子と、木枠の大きな黒板があるだけだった。他には、本もノートも何も置かれていなかった。動物園の一日が終わると、彼は一人、明けの明星が見えるまで黒板に文字や絵を綴ったという。
 東の空が目を覚ましかけた頃、彼は喉の渇きを覚え、壁にぽつんと付いている蛇口からコップに水を汲もうとした。蛇口を捻ると、水が冷たい音を立ててコップの中に落ちた。
 コップの半分ほどが満たされた時、とても素晴らしいことが起こった。
 蛇口の狭い口の中から、風船が膨らむようにして赤い林檎飴のようなものが出てきた。それはぽちゃん、とコップの中に落ち、音を立てた。
 どうやら液体じゃないらしいぞ、と中を覗き込むと、その林檎飴のようなものと目が合った。
 どうやら食べ物じゃないらしいぞ。そう理解すると同時に、彼はそれをとても美しいと思った。

「…しかし、君はペンギンなのだから、魚を食べるだろう。今はともかく、どうしてその時食べなかったんだ」
 私は尋ねた。彼は答えた。
「彼女は金魚さ。しかし林檎飴でもある。フランボワーズでも、アンタレスでもある。こんな奇天烈な金魚、食べるのは惜しいに決まってるじゃないか」
 彼と彼女はクチバシと口とをちょん、と合わせた。
 私は部屋を出た。後でまた来よう。

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