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2F/当番ノート

雲のミルフィーユ #02 “偽一番星注意報”

当番ノート 第14期

“偽一番星注意報”

1989年4月1日 最高気温16℃ 最低気温5℃ 快晴

 午后2時、動物園内にある食堂にて遅めの昼食をとる。今日は新鮮なサラダとボロネーゼ。本来ならメインデッシュはボロネーゼの方だが、私にとっては新鮮な野菜をふんだんに使ったサラダが食べられることの方が嬉しかった。南極で最も寒さが厳しい地域にある私の観測所では、生鮮野菜を食べることができなかった。年間の気温がプラスになることもないあの地域では、食品は強制的に完全冷凍となる。野菜などの植物の栽培を試みたこともあったが、結果はほぼ全滅。唯一成功したのはカイワレ大根のみである。
 そうした事情もあってレタスとトマトと生姜のドレッシングの組み合わせに舌鼓を打っていると、園内放送が耳に入った。

「ご来園の皆様にご案内申し上げます——14時30分より動物達のお食事タイムが始まります——」

 何だいつもの食事時間のお知らせか、と思っていると続きがあった。

「……動物達の食事風景と飼育員による解説をどうぞお楽しみ下さい。また、本日4月1日夜は偽一番星注意報が発令されております。天体観測の際は本物の一番星とお間違えのないよう、ご注意下さい…また、本日の閉園時間は18時——」

 ……また何かやったな。私は残りのボロネーゼをかき込み、ピゴの住むペンギンエリアへと向かった。

#02_挿絵

 ペンギンエリアへ到着すると、他のペンギン達——屋外プールに居る、ケープペンギンやフンボルトペンギン、コガタペンギンなど——は飼育員の前に1列に整列し、アジの切り身を貰っていた。
 その屋外プールの向かいにあるピゴの部屋を見ると、彼もまた食事中であった。彼は机に向かい、他の動物達の食事風景を眺めながらフォークとナイフを器用に使いイワシを食べていた。机の横には石油ストーブがあり、ストーブの上に置かれたアジの切り身のホイル焼きが良い具合に焼けていた。彼の恋人である金魚のクローナは水槽に戻って小さくちぎられたパンを食べていた。彼は私に気付くとフォークを置き、手を振った。私は裏口に回り、彼の部屋に入った。
「随分良い待遇じゃないか」
 思わずそう零した。出会ってすぐは緊張しきってぎこちない会話が多かったが、話すにつれてそれもなくなっていった。今ではすっかり肩の力が抜けている。ピゴはアジを口へ放り込みながら机の上の白いメモを見せた。

“働かざる者食うべからず。働く者食うは当然の権利なり”

 どうやらこの質問は読まれていたようだ。気を取り直して本題に入った。
「さっきの変なアナウンス、あなたでしょう」
 ピゴは食事を終え、ナプキンでクチバシを拭い、黒板に返答を綴った。
“変な、とは?”
「偽一番星注意報とやらのことに決まってるじゃないか。あなたしか居ないでしょ、ああいうことをするのは」
 彼は何も答えず食器を片付け、机の上をアルコールで消毒しはじめた。机の隅々まで拭き終えると、棚から大きな裸電球を取り出してきた。よくある鶏の卵ほどの電球よりも数倍大きく、それはヒトの拳2つ分ほどもあった。
「それは?」
 彼は電球の口金部分の刻印を指差した。

“Venus”——“金星”とあった。

 何となく彼の言わんとすることが分かってきた。壁に掛かったカレンダーをちらりと見る。予想通り、4月1日に赤のフェルトペンで大きな丸が書かれていた。
 窓の外を見る。まだ日は高い。ピゴの椅子の向かいに置かれた丸椅子に座る。ピゴは珈琲を2杯机に置いた。彼の隣にはクローナが飲む為の、銀の小さなポットに入った林檎ジュースが置かれている。

「本、借りますよ」
 私は机の上に積み上げられた本の中から、青い表紙の詩集を手に取った。ピゴはノートにペンを走らせ、クローナはそれを横から覗き込んでいた。
 日は穏やかに暮れていった。

 午后5時半。日没の少し前。ピゴはペンを走らせる手を止め、窓をちらりと見やり、支度をはじめた。彼は鞄に先ほどの電球、星座早見盤、小型望遠鏡を詰め、ドアの前に立って私とクローナに向かって手招きした。私達はぞろぞろとペンギン館の建物の上にある屋上へ登った。
 動物園というのは、高さのある建造物が少ない空間である。眼下には動物達の住処が広がり、はるか遠くにヒトの住処があるのが一望できた。辺りの空気は薄い紫紺に染まり、インク瓶の底に立っているような感覚を覚えた。私はその光景をただぼんやりと眺めていた。
 ピゴは私の背丈よりも数倍高いアンテナに梯子を使って登り、電球を取り付けていた。クローナは言葉こそ話さないものの、楽しそうに尾ひれを揺らしてそれを見ていた。数分ほどで作業は終わり、こちらに下りてきた。

「あなたは本当に無駄なことが好きだなあ」
 ピゴはスケッチブックにまたペンを走らせた。
“無駄だからやりたくなる。無駄じゃなかったらつまらない。そんなものです”
「皆、騙されてくれるかね」
 彼は何も答えず、今まさに隠れようとしている太陽を指差した。
 そして手元の赤いスイッチを押した。

 偽一番星は静かに明滅している。クローナと呼ばれた金魚はその周囲を人工衛星のように周回し、踊っていた。
 つられて本物の星達も顔を出しはじめた。
 エイプリルフールは成功したようだ。その夜、私達はずっと空を見上げていた。

鯨窓机(とりかわつくね)

鯨窓机(とりかわつくね)

「部屋から一歩も出ずに無菌室的世界の極地・南極を感じる方法」を研究テーマとしたアートユニット「第二極地観測所」主宰。9月1日より筆名を「鯨窓机」と改名。

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