雲のミルフィーユ #07 “マスク問題”

第14期(2014年4月-5月)

1989年7月31日 最高気温27℃ 最低気温21℃ 小雨

 その日、行きつけの自然史博物館へ立ち寄った後、アイスクリームスタンドで買ったよく分からない味の青いアイスを片手に彼の居る動物園の園長室へ行くと、入り口近くの掲示板にこんな貼り紙があった。

“風邪が流行っています”

 大きく書かれたその文字の下にはマスクをしたクマの絵が描かれ、「職員は全員マスク着用の事」とあった。その貼り紙のすぐ近くの白い箱の中にはマスクがぎっしりと詰まっていた。私はその中から一枚を手に取った。

「大変ですね」

 扉から出て来た園長に声をかけると彼はうんざりした顔で、
「動物達の間でも流行っててね。薬をやっても吐き出してしまうんだ。食事に混ぜても器用に薬だけ取り出すもんだからお手上げだよ。その器用さをお客の前でも発揮してほしいもんだ」
 と言った。彼も白いマスクをしていた。口元は見えないものの、思い切りしかめ面をしているのは眉と目元でよく分かった。マスクをしたことで息がかかり、真冬の窓辺のような結露した窓を2枚、眼鏡のフレームの中に作っていた。私はその小さな窓に指でクラゲの絵を描きたい衝動に駆られたがぐっと堪えた。

 園長と別れ、園内を見て回った。シロクマは時折咳き込むような仕草をし、ゾウは気怠そうに柵の上に鼻を載せてうつむいていた。いつもサラリーマンのようにせかせかと歩き回っていたトラもライオンも、運動場の隅の壁にへばり付くようにして眠っていた。

 さて一方のペンギンエリアはというと、小型のペンギン達が集まるプールはいつもより寂しげだった。いつもはプールでちゃぷちゃぷと泳いだり、日の当たる場所に出てぼんやりとしている彼らだったが、今日は大多数のメンバーがそれぞれに与えられた寝床に引っ込んでしまっていた。
 ピゴの部屋の前まで来ると、いつも客に向けて大きく開かれていた窓は真っ白いカーテンで閉ざされていた。こんなことは初めてだった。窓には「本日臨時休業」と看板が立てかけてあった。
 部屋の入り口のドアにも同様の貼り紙があり、ドアに付いた覗き窓もまたカーテンで塞がれていた。ノックをするも返事がない。ドアに耳を押し当てると、ドビュッシーの月の光がいつもよりかなり大きな音量で流れていた。
「ピゴ?」
 声を少し張り上げて呼びかける。音楽が小さくなった。

 ど・う・ぞ。

 ドアを内側から叩く音。モールス信号。ドアに鍵はかかっていないようだ。開けると部屋一面に白い布が散乱していた。机の上には医学書と裁縫の本が積み上げられていた。クローナは水槽の中から心配そうにそんな部屋の惨状を覗き込んでいた。
「何だ何だ、これはどうしたんだ。こんなに散らかして」
 そう尋ねると、ピゴは黙って黒板を指差した。そこには動物園内の地図が拡大して正確に写し取られていた。白い線に混じって、チョークで描かれたいくつかの赤い印があった。
 ゾウ——×
 鳥類舎——△
 キリン——×
 シロクマ——×
 ライオン——△

 それぞれの住人の住むエリアごとに描かれた印。これは?と尋ねると、ピゴは咳き込むようなジェスチャーをした。なるほど、風邪をひいた動物には×印が付いているようだ。
「その黒板の意味は分かったよ。それとその白い布や裁縫の本は何の関係があるんだ」
 ピゴは答えた。
“答えは君の左手の中で丸まっているよ”
 左手を広げると、先ほど園長室前の掲示板で手に取ったマスクが縮こまっていた。どうやら、ピゴはマスクを作っていたようだ。
 マスクくらい、買ったらいいじゃないか。私はそう言いかけて口を閉ざした。私の手の中にあるヒト用のマスク。どう見ても、ペンギンであり、鳥類であるピゴの口に合った形状ではない。机の上を見ると、ペンギンのクチバシのスケッチが大量にあった。いつもより乱雑に書かれた文字や線を見るに、まだこの問題の結論は出ていないようだった。
 ピゴはかなり焦っている様子だった。せかせかぺたぺたと歩き回り、数分おきに黒板を見たり机に向かったりと忙しく動き回っていた。こんな姿を見たのは初めてだった。
 私はそんな彼に声をかけず、ピゴの向かいに座ってノートを開いた。私は毎日のように彼と共に様々な問題を解き、互いに議論を戦わせたが、確かにこの問題は難しかった。

 小一時間ノートと見つめ合ったが何も浮かばず、気分転換をしようと彼に声をかけて自然史博物館の図録を取り出した。今日から期間限定で開催されている、医療の歴史に関する特別展の展示物の写真と解説が収録されているものだ。

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 注射器。点滴。古い古い薬瓶や薬棚。コレクター垂涎の品ばかりだ。ピゴもそれらを見て少し落ち着いたようだった。
 130ページもある図版を丁寧に目で追っていく。頭の中でぶんぶんと動き回っていた焦りの気持ちが融け去っていく。
 しかし最後のページを見た時、私とピゴは思わず声を上げた。
 丸いゴーグルのような窓が2枚嵌め込まれた、革製のマスク。口元は鳥のクチバシを模した形状。中世にペスト医が使っていたというマスクの図版だった。
 これだ!私とピゴはぱちんと手を合わせた。クローナは水面から跳ね上がり祝福の水しぶきを上げた。

 数日後、ピゴの努力の甲斐があってペンギン用マスクが完成した。
 しかしその頃には園内に蔓延していた風邪は治まってしまっていた。後日彼にそれを指摘したが彼は意に介さない様子で、それからしばらくは、嬉しそうに弾んだ足取りでペスト医のマスクを着けて園内を散歩するピゴの姿が見られたという。
 それはそれで、集客効果があったようだ。