雲のミルフィーユ #08 “ホタル・ジュース”

第14期(2014年4月-5月)

1989年7月31日 最高気温29℃ 最低気温23℃ 快晴

 その日はとても気温が高く、蒸し暑い日であった。空調の効いた部屋で、レモンの輪切りを入れた薄荷水を飲みながら考えることは南極での極寒の日々のことばかりだった。年間を通して気温がプラスになることはおろか、零下30度を上回ることのない天然の冷凍室。無菌室。フランスでの生活にも慣れて来たところだったが、毎日夜眠りにつく頃には頭上に南極への憧れが雪雲のように浮遊していた。
 南極海に飛び込めたらどんなに良いだろうか。
 そんなことばかりが頭の中を回りながらも書類の整理と手紙の返信をする作業を続けていた午后、自室の呼び出しベルが鳴った。
「はい」
 ベルに返事をし、ドアを開けようとするも頑として開かない。向こう側からノブを抑えているようだ。飴色の樫の木のがっしりとしたドアに耳を押し当てる。
「誰ですか?」
 再びベルが鳴った。突然の大きな音に心臓が跳ね上がったが、よく聴くとそのベルの音は長い音と短い音が連続しており、リズムを刻んでいるようだった。
「…またあなたですか」
 ドアスコープを覗いてみるも、その高さからは何も見えなかった。ふと、りんご色がスコープの前を横切った。シフォンリボンのような尾ひれが見えた。ビンゴ!

“ご・よ・う・は・な・ん・で・す・か”

 連続したリズム。モールス信号。すぐさま返答があった。

“プ・ー・ル・に・い・き・ま・せ・ん・か”

“い・い・で・す・ね”

 ノックとベルが交互に鳴る。とんだ近所迷惑だ。今夜22時に動物園裏のプールに集合。ピゴはそう言い残して帰っていった。スコープを覗くと、クローナがレンズにキスをして優雅に空中を泳ぎ去って行くのが見えた。

 長い長い昼がようやく終わり、太陽が地中深くに潜って行った22時。私はタオルと水着とドロップ缶だけを持ち、待ち合わせの場所まで向かった。到着するとピゴは既にそこで待っており、こちらに気がつくと片翼をひょいっと挙げた。

 何か言葉を交わすでもなく、私は水着に着替え、プールに入った。白い光の街灯に照らされたターコイズブルーのプールの底。私は泳ぐこともせずにただ長方形のプールの中心に膝を抱えて座り、ぼうっと仄明るく揺れる水面を見上げていた。
 インク瓶の底に座っているような感覚。
 潜る前に口の中に放り込んでおいたソーダドロップの透明感のある甘さが、風邪を引いた時に額に当てられた母の手のような安心感を与えてくれた。
 小さな頃から、プールへ行くとこうして水中から水面を眺めているのが好きだった。運動神経こそ良くないが肺活量だけはあるのか、かなり長いこと潜っていても平気だった。

 しばらくそうしていた後、私はピゴを探した。彼は久しぶりのプールが楽しいのか、プールの端から端までを弾丸のように、彗星のように飛び回っていた。地上では、背中に膨大な知識や哲学を背負い込んで、その重みのせいでブリキの二足歩行ロボットように覚束ない足取りで歩き回る彼。そのブルーグレーの小さな背中がこんなに軽く見えたのも初めてのことだった。
 クローナはそれを少し離れたところから見守りながら、彼の泳いだ後にできる銀色の泡を食べていた。
 息継ぎ。
 潜水。
 息継ぎ。
 潜水。
 それを幾度となく繰り返し、日付が変わろうとする時刻。ピゴは私に上がるようにとサインを送った。
 突如重くなった体を引きずり、プールサイドに置かれたテーブルと椅子に向かった。テーブルの上にはビーカーと薬品の瓶が置かれていた。
「ビーカーもいいけど、それがサイダーの瓶だったらもっと嬉しかった」
 思わずそうぼやいた。そして何をするつもりだ?と問うた。
“飲み物を持って来たんですよ”
 ピゴはテーブルの端に置かれたベルを叩いて答えた。
“ホタルジュースです”
 そしてそう付け加えた。昆虫のホタルの事かと思ったが、どこにもそんなものは見当たらない。
“まあ、見て頂戴な”
 クローナはそう言わんばかりに目配せした。ピゴは薄い黄色がかった透明の液をビーカーに注いだ。そして手品師が客を見る時のような得意げな顔で、一度こちらを見た。それからもう一方の瓶の中身をその中に注いだ。
 すると体の中を雷が走るような感覚がした。

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 中の液体が透明な青い光を放ちはじめた。声を挙げる間もなく、ピゴは次々に他のビーカーに薬液を注ぎ、色とりどりの光を作った。赤。緑。紫。黄色。ピンク。
 ホタル・ジュース。まさにその通りであった。
“涼しくなったでしょう?”
 得意げな顔で彼はこちらを見上げた。
「完敗だよ。いや、乾杯か」
 私は白い光のビーカー。彼は青い光を。
 硝子の触れ合う音が耳の奥に南極の白い空気を作った。

——雲のミルフィーユ 了

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 全8回の当連載を沢山の方にご覧頂き、ありがとうございました。
 書籍版「雲のミルフィーユ」は書き下ろし完結編及び挿絵を加え、今夏〜秋頃に刊行予定です。
 本作はスピンオフ作品です。本編「Codex_Pleiades」は恵文社一乗寺店及びブックスキューブリックにて販売中です。そちらも併せてご覧頂けますととても嬉しく思います。
 南半球に冬が訪れる頃、コウテイペンギン達に新しい命が誕生する頃、またお会いしましょう。

 第二極地観測所 主宰 とりかわつくね