tab el 生命を巡る食の旅 番外編①「生死を食べる」

第18期(2014年12月-2015年1月)

こんばんは、食卓研究家の新田理恵です。
ご縁あって、アパートメントの住人となりました。

よくよく考えれば、最近書いたほとんどの文章は誰かのために書いていて…。
久しぶりに、誰のためでもない、
ただただ”食べる”を巡る旅を2ヶ月間漂流してみようかと思っています^^

出発は、以前の到達点から。

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●生きるために、殺める?

食べる、という事は、命をいただく…といういこと。
それがずっと矛盾のように感じていた。
だって、食べなければ生きていけないのに。
生きるために食べるけれど、食べることは他の命を奪うことだ。

生きるためには、なぜ殺めなければいけないのか?

3年前、その答えを出すために、
この手で絞めるという調理をしてみることにした。

生きている食材を探しても、スーパーにはほとんど無かった。
野菜も、お肉も、お魚も、綺麗に切りそろえられ、
賞味期限に迫られながら美味しそうに並んでいる。

唯一、貝類だけが、ひっそり息をしていた。

改めて、いのちをいただくという視点を持って、あさりの酒蒸しを作る。
生き物だと思うほど、愛らしくて苦しい。

その後、魚市場で生きている魚も手に入った。
最初はカレイが可愛くて。
とても包丁で切れなかったから氷絞めにすることにした。

氷水の中で、緩慢にメイタガレイはおとなしくなる。
このままゆっくりと、命が途絶えてしまうのだ…と、
静寂の中、見守り続ける祈りの時間…
永い、永い、5分間。

その後、突如としてカレイが暴れ出した。
すごい勢いで、尾びれで氷をはじき出して、飛び出そうなくらいの大暴れ。
全生命力を振り絞って、あがいていた。
生きる、ために。

死ぬって、ただ事じゃない。
生きるって、とんでもない。
壮絶な生命力を目の当たりにして愕然とする。

数分の全力抵抗のあと、カレイは動かなくなった。
からっぽの身体をさくさくさばいて、煮付けにした。

………
………美味しくない…

それがまた辛かった。
(エゴだけど)せめて美味しく食べてあげたかった。

苦しみながら死んだお肉は不味いと聞いたことがある。
早くしっかり血抜きをしないと、不味くなるとも。

結局、私は苦しめたあげく、おいしくない、感謝しきれない料理をしてしまった。
生半可な決意で、料理をしていた。

それ以降、肘が震えようが、涙が出ようが、ちゃんと早く絞めるように頑張るようになった。

●死の向こうに見えたもの
何回か魚も絞め、鴨をさばくのにも立ち会う中で、
徐々に「食べる=殺める」に対する懺悔のような気持ちが変化してきた。

当時、学びはじめていた薬膳のマクロな視点や食の哲学に触れるうち、
これは”新陳代謝”なんだと気付いた。

細胞の寿命は、短い。
数日のものから数ヶ月のものまであるけれど、
それらで構成されている私たち人間は何十年も生きる。
それは、生命体がある秘技を生み出したから可能になったのだ。

自ら古くなってきた細胞を、新しい細胞に入れ替えるという”新陳代謝”。
それによって、細胞の寿命よりも遥かに永く、私たちは生きていられる。

36億年前に地球に生命が誕生してから、
様々な変化を遂げて多様な生き物が現れては淘汰されてきた。
それらを巨大な生命活動の一つだと捉えると、私もカレイも、そのたった一つの細胞。

食べたり食べられたりを繰り返して、生命体は地球上で何億年も存在し、活動し続ける。

そう思うと、食べる食材に対して感謝はするし、心も少し痛むけど、
食べることに対する罪悪感はなくなった。
食べた食材たちは、私たちの身体の中で変換されて、また生きる。
私も死んだら、バクテリアに食べられる。
母なる土となる。

個々に捕われると矛盾していたものが、大きな一つの流れに見えた。
それから、私は死ぬのが(まだ生きたいけど)以前より嫌ではなくなった。

これが悟りの一種なのかもしれない、という気さえする。
自我を抜けた瞬間だった。

「生命活動の新陳代謝」が、前回の「食べる」ということの答えの一つ。
これ以上大きな答えと問いがあるのだろうか、考えられるのだろうか、と思っていたけれど、
そろそろそれも更新してみたい。

今回のアパートメント滞在では、それに挑戦します◎