創作の原風景と私のぬいぐるみゴッコについて

第19期(2015年2月-3月)

私自身は、時々パフォーマンスをして、雑誌編集なんてしているだけで「創作」などとごたいそうな事を言えるようなものはしていないですが、やっぱり胸の内に秘めた「これが作りてえ」という欲があります。
それを辿ってみると、どうも自分が物心ついてから5年以内くらいにした事をもとに、
それを延々と反復しているように思えてきます。

昔幼稚園生だったころ、私は、ぬいぐるみで遊ぶのが大好きだった。
5個上の兄がいて、暇になると一緒にかごを引っ張りだしてきて、ぬいぐるみで遊んでいました。
母親が作ってくれた、布とペレットでできた赤と白のくまのぬいぐるみ2体と、ぼのぼの(ラッコのキャラクター)のぬいぐるみの、併せて3人が主人公。そこに、ハムスターとかうさぎとか、だんだんぬいぐるみを買ってくるごとに仲間が増えていって、色々なコメディを作って遊んでいたのでした。
兄が色んな話を即興で考えるので、それにちゃちゃを入れてみたり、自分でもその真似をしてお話を作ってみせたりして、毎日のように、延々とぬいぐるみに劇を演じさせていました。外から帰ってきて手持ち無沙汰になると、すぐにぬいぐるみで遊んでいました。

未だにその名残が端々に現れることがあって、先日もジャグリングの演技のための構成を作っていたのですが、
どうも自分は、真剣なかっこいい演技みたいなものを作る能力に乏しいのです。
確かに私は、映画の『マトリックス』とか『酔拳』とか、中学高校とやっていた少林寺拳法とか、色んなコンテンポラリーサーカスとかを観た記憶から、なんとなく「かっこいい演武のような演技」のぼんやりとした理想像は持っています。
ただいかんせん「かっこいいもの」を自発的に「作った」経験がほとんどない。
だからあんまり、「かっこいいもの」が中から湧き出てくるような感覚がない。
代わりに、すぐ、「ここでこれが起こったら面白いだろうな」とか、「オチ」がすぐに思い浮かびます。
おそらく、小さい頃テープに20本近く録り貯めたぬいぐるみのお話は、成長してからのもろもろを遥かに上回る「創作」経験だったのでしょう。

そんな程度のものが下敷きというのも頼りがないのですが、自分の中では非常に大事なことでした。
しかもそのお話づくりは、幼稚園から小学校低学年という、一番「護られていて」時間があるときに熱中したことであった。
今思えばなんだったんだろうという気がしますが、自分自身でテープに録ったお話を聴くのも好きで、自分が作ったお話を一からそらで演じ直すことも出来たくらい、ウォークマンで繰り返し繰り返し、聴いて、また作っては聴き、をしていました。

一体、自分の「起源」にこだわり続けることとか、自分のやることを愛しすぎることとかは、そんなによいとも思わないですが、自分の起源があそこにあるんだろうな、とか、自分は大体こんなものが好きなんだろうな、とかぼんやりとでも思えることは結構安心で、でもまた、そこから離れていく自分が少し不安になるものでもあります。

私自身は、ううん、たぶん、あの頃、ただただ自分の作ったお話を聴いていたとき、何か満ち足りなくて、自分が楽しみたいがために次の何かをつくっていて、それはきっと「創作」として一番純粋で、健康だったのだろう。