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2F/当番ノート

京都の話、ジャグリングの狭さと、そこからはみだす人の話。

当番ノート 第19期

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夜行バスに乗って京都に行ってきた。
5年前に行ったのが最後だが、京都のどこがいいのかは肌感覚で覚えている。
こここそ本来「みやこ」と呼ぶべきところなのだという感覚。「日本史」の大部分を背負っている感じがするところ。
江戸はもともとただの小さな漁村だったということと比べると、東京が持つ歴史の浅さが少し残念である。
でも横浜はまた別だぞ。横浜はいいところですよ。
ぜひ「桜木町」に一度は来てくださいね。ふふふ。東京の人、ごめんなさい。
ただ地元が好きなだけです。

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▲話がそれるけど桜木町

夜行バスのいいところは、朝早く着くところだ。
朝の空気の特権的な感覚は、何にも変えがたい。
朝5時から7時までの世界は、すっきりしていていい。
寒い朝の京都に着いてすぐに、わくわくしてきた。

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▲6時過ぎ。人がまばらにいる駅。

何をしようか、考えるだけで満たされる。
ちょっと普段やらないことをやっちゃってみようかな、なんて気分になる。
京都でやることで事前に決めていたのは、友人のジャグリング公演を見に行くことだけであったから、とりあえず目に付いたバス1日乗車券を何も考えずに買って、あとはただ気の向くままに散策した。
まず駅に近い東本願寺に行ったが、改修中だったのでバス停に行き、やって来たバスに乗る。
銀閣にでも行こうと思ったが、乗ったバスはそちらの方には行かないようだったので、路線図を見ていたら見つけた京都外国語大学に行くことにする。外国語専門の大学に、前から少し憧れがあったのだ。着いたら、門のところにある大学名を見て、「うん」と思ってから、次へ向かうことにする。
そこからバスが何本も出ていたので、嵐山方面に行くものを選んで乗る。友人が先だって「モンキーパークが面白い」と言っていたので、行ってみることにした。
渡月橋のあたりから山に登っていくのだけど、途中道端で毛づくろいしている猿に出くわしたり、頂上の広場では群れるおさる達が自然のままに活動していたり、そういえば猿を、柵のない状態で間近で観察したことなんてなかったし、世の中には面白いもんがあるもんだ、と思って満足だった。天気がいいからさるも非常に気持ちが良さそうだった。

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▲眺めもいい。

モンキーパークをあとにして、周辺の天龍寺や嵯峨野を歩き、電車で市内に戻って、二条城を見て、駅に帰り、一休みしてから国立博物館に行って、また駅に戻り、いよいよ公演を観に行く。

さてここからが、ジャグリングの話。

主に京都で活動している「ピントクル」というジャグリングの団体があって、彼らは、自分たちが慣れ親しんできたいわゆる今までの「ジャグリング」をベースに、新しいジャグリングの形を模索している。
たとえば、見たことのないまったく新しいジャグリング道具を作るということで。
ジャグリングは、はみ出すのが面白い、と前に書いたが、彼らもやはり「はみ出す」人達だ。

ジャグリングは、今、どんどん広まっていることと引き換えに、「狭さ」を余儀なくされている。
「競技」としての傾向のあるジャグリングがすごく流行っているからである。
なぜ「競技」として発達すると、狭くなっていくのか。
通常大学生や、その他一般の人々に見せ物として、或いは実際におこなうことで楽しまれている「ジャグリング」は、たとえばボールを使うとか、クラブ(ボーリングのピンのようなもの)を使うとか、それなりに「規格」がある中で、パフォーマンスをしたり、自己の成長が楽しまれている。

その「道具の選択の幅」が、まず狭いのである。

本当は、投げられるものなら、極論、なんでもよいはず。
懐中電灯でもいいし、変な形の箱でもいい。
でも、誰も「脇道に逸れ」ようとしない。
それはひとつには、道具がほぼ均一であることで始めて、「競うことが出来る」
少し言い換えると「自分ができること」に意味が生まれるから、である。
つまり、同じ条件のもとで、「俺はこんなことができるぜ」という、そのことがかなり大事なのである。
だから、そういう競技性は若い人を引きつけるし、動画などを用いた切磋琢磨も盛んに行われる。
また、一つの単純な作りをした道具でスキルを磨く、いわば「縦の伸び」は、それだけで非常に魅力的なものだからでもある。実際私が楽しんできたジャグリングも、そういう、「縦の伸び」を楽しむものであるというのが基本だったし、それは悪いことではない。

だが、それがただ単に「暗黙の了解」であった、ということに、まだそこまで多くの人が気付いていない。
ジャグリングとはこういうものだ、と決めつけているフシがあるのだ。
端的に言うと、ジャグリングとは「ジャグリングショップ」(というものがあるのですが)で買えるものを使って面白いことをすることだ、という見えない束縛を、そこにあるとも意識していない人が多いのです。

そこで、このピントクル。

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▲居並ぶ奇妙な道具達。ピントクルの今回の公演、開演前の様子。

勿論彼らはその一例であり、世界で最初の、オリジナル道具を使った団体だとか、そういうわけではない。日本には道具を色々作ってみている人や、ジャグリングにコンテンポラリーダンスとか、劇的な要素を持ち込むとか、工夫をしている人が他にもいる。
また、ピントクルも、実は、私が卒業論文でも扱ったジェイ・ギリガン率いるTeamRdLという、新しい道具を作る同じような団体に多分に影響を受けていることは確実である。
でも、やっぱりピントクルは、その場の思いつきではなく、きちんと作った道具の具体的な使用方法を、それなりに深化させている、日本では希有な団体だ。
つまり「道具を作る」ということを、非常に意味のあるものとして扱っている。
これははみ出し方が他の人達よりもより過激である、ということでもある。
だから当然、理解を示さない人も多いとは思うのだが、なんのその、違うことをする人というのは、どこの世界でも大概疎まれる。自分が信じることをどんどんやっていけばそれでいいので、その点、今の日本のジャグリングの世界には、更なる多様性の発達に関してなかなか希望が抱けるなぁと思った訳です。

なんにしても、そのような既存の「当たり前」への懐疑の波が、いよいよ押し寄せてきているのが、日本ジャグリング界の今。世界に目を向けても、その傾向はある。
これはつまり、一定の「拡散」期間を経て、次の「独自の進化」また「多様性の発展、細分化」が起こっているという、まさにこれ、生物のような状況なのです。

ジャグリングのカンブリア爆発はすぐそこなのかもしれない。

さて、今、ジャグリングの公演を行う団体や個人が増えている。
そのどれもが、全て旅をして見に行く価値がある、
とは言えないのだが、数が増えてきているのは事実である。

私は、フットワークが軽いね、とよく言われるが、もともとそうだったわけではなく、たとえば京都への距離感を縮めているのは、そういう熱心な人達と、ジャグリング自体への興味なのです。
そしてそういう風に、しょっちゅうあちらこちらに行っていると、一つの出会いあたりの感動が薄れているんじゃないかと思われるかもしれませんが、とんでもない。
むしろ、単一でない、アマゾンの密林のような色々なジャグリングの姿を見ることは、見れば見るほど、「次を見たくなる」好奇心をくすぐる、素敵なグラデーションなのです。

結局京都から帰って来た私は、その足で横浜でやっていたもうひとつ別のジャグリングの公演を見たのでした。
ジャグリングやっててよかった。

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▲京都、いいところだった。

青木 直哉

青木 直哉

ジャグリングの雑誌「PONTE」編集長。
好きなものは無印良品とことばとエスプレッソ。

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