「人魚が星見た」第七話・浦賀

第21期(2015年6月-7月)

▼浦賀

なくしちゃったのね。
魔女は言った。
それで、南へ、来たのね。
声が出ないので、うなずいて答える。
ところで人魚はげんき?
不意をつかれた。少しためらったが、うなずいた。
げんきなら、だいじょうぶね。
魔女は微笑んだ。嫌な感じはしなかった。しばらく黙って、バスに揺られた。
あ、ここだわ。
魔女が唐突に声をあげた。
向こう岸に、行ってるからね。
言うと赤い帽子の魔女は私のほおにちょっと触れ、ひらりとバスを降りてしまった。氷がとけるように体が動くようになり、扉の方に目をやった。ちょうどバスが停車しているところだった。店が並び、人の行きかう町中に戻ってきたようである。はじかれたように席を立ち、朝顔の鉢にかけられたビニール紐をつかんで、私もバスを降りた。あてはなかったが、「向こう岸に」という言葉が耳奥に残っていた。

バス停のそばに「渡し船」の看板が大きく出ている。看板にしたがって、細いわき道に折れた。いくら進んでも住宅街しかなく不安になってきたころ、路地の奥まった場所に桟橋がようやく現れた。しかし、船の姿はない。小さな待合所にブザーがある。押した。しばらく待つ。だんだんとエンジン音が近づいてきて、朱に塗られた船が向こう岸からやってきた。雨はやみ、船の屋根から蒸発する湯気が見えるほど、空は急激に晴れてきていた。

タラップから船に乗りこみ、渡し賃を操縦席のそばのボックスに入れる。船に乗っているのは、私のほかは船頭だけだ。入江の彼岸は目と鼻の先で、ほんの数分の船旅である。湾というものを見せようと思いたち、水筒をあけ、人魚の顔を出してやった。

首を伸ばし、巨大なドックを遠目に見ている人魚を片手で支えながら、かばんの中をかきまわした。Nの人魚飼育日記を取りだす。持ちあるいているうちにかばんの中で表紙の角が大きく折れてしまい、だんだんうすよごれてきてはいるが、それでもいつも持っていた。日記は、Nひとりだけの筆跡になるあたりから記述がまばらになるものの、だんだんと人魚が弱っていく様子がつづられている。最後のページが、ふしぎなのである。日付の下に「海岸で会う」という一文だけがあり、そこで終わっている。誰と、どこの海岸で? 何も、わからなかった。でも、こんなものにいつまでもかかずらっているからいけないのだというのは、わかる。頭では。できるなら、もう読みかえしたりしたくない、と思う。頭では。

日記から顔をあげると、目の前に女が座っていた。子どもをひざに抱いている。バスで一緒だった赤い帽子の魔女ではなかった。水筒を、取りおとした。床に水がこぼれ、しみをつくる。人魚が飛びだして床にころがってしまった。あわてて人魚を拾い、胸に抱きすくめた。女は、人魚も私も目に入らないかのようにうつむいたまま、小さく口を動かしている。声がかすかに、洩れきこえる。Nの名を、呼んでいるのだった。ぱっと、女がうれしそうな顔をした。Nが来たのだ。私にはわかった。ふたりはむつまじく話をしている。女が虚空に手を伸ばし、Nを愛撫しようとする。いつまでも、岸は近づいてこない。船は止まっていた。操縦席は空だった。雨あがりの強い日差しを顔にじかに受けながら、私は女とその子ども、それからNを、ながめていた。

存外、心は落ちついていた。人魚を抱いたまま体を船から乗りだした。最後のページだけをちぎってポケットにいれると、そのまま日記帳を海に投げすてた。海面に沈む、とぷんという音が響いた。同時に、女の抱いていた子どもがひからびて崩れ、さらさらと散った。Nが船から去ったのを、感じた。残された女はひとりで、しばらく凪いだ海面を見ほうけていた。私はちぎりとった紙きれを、ポケットの中でさわっていた。

次に目をあけた時、船は着岸していた。乗客は私ひとりだった。「ありがとやしたー」と、船頭のしゃがれ声が聴こえた。降り立っても、誰もいなかった。向こう岸に行ってるって、言ったのに。魔女に向かってつぶやいた。桟橋にかがんでなんとか水筒に海水をすくい、人魚を入れてやった。怖がらせてごめんね、と謝って頭をなで、ふたを閉めた。

こちらの岸は、船着き場がすぐ車の通りに面していた。向かいに、石段と鳥居が見える。道路をわたり、逃げこむように、のぼった。社を詣でる。もう魔女にも誰にも会いたくなくて、巫女からお守りを買った。お守りは、むきだしの勾玉だった。勾玉をつまみ、けげんそうな顔をした私を見て、巫女が言う。
「袋は東で売っておりまして。……お参りなさいました?」
いえ、あの……東?
「こっちが西の神社で、東にもおやしろがあるんですよ。渡し船で、すぐそこです。縁結びで有名でして、東と西でひとつのお守りなんです」
巫女はすらすら説明を終えると、ひゅるりと白いねずみになった。「もしね、片方しかお参りしないとね、どうなるかってね」と歌うように言いながら、事務所の奥に這っていってしまった。

巫女の言葉に不安になり、それでは東にも詣でなくてはと思って船着き場に戻ったところ、その日の運行は終わってしまっていた。少しずつ、日の暮れる時間が早くなってきていた。浦賀の駅まで歩いた。終着駅である浦賀の、ずっしり敷かれたどんづまりのレールに寂しさをおぼえた。入江ではだめだった。また海岸を探そう。

帰宅し、朝顔をベランダに置いた。人魚もたらいに戻した。今日はだいぶ長く連れまわしてしまった。洗面台につめたい水をはり、人魚の体を洗ってやった。うろこの間もひとつひとつこすり、軽くタオルで拭く。いつもなら、人魚は髪を振りまわして残った水滴を飛ばすのに今日は元気がなかった。荒く息をつき、首をたらいのふちにもたせかけて、ぐったりしている。おかしいと思って、指につけた砂糖を口もとに持っていっても、舐めるそぶりも見せない。

どうしよう。雨の岬でも、渡し船の上でも平気だったのに。ここへ来て、私は取りみだした。どうして。どうして。死なないで。思いあたって、ポケットから日記帳の最後のページを出し、まるめて捨てた。これが残っているからいけないのか。しばらくして思いなおして拾いあげ、マッチを探してきて念入りに燃やした。「海岸で会う」というNの文字が、ゆらゆらと灰になるまで見まもった。でもだめだった。人魚は今にも消えいりそうな、かぼそい呼吸をしていた。私は夜どおし、人魚の小さな手をとり、そばで声をかけつづけた。

浦賀