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2F/当番ノート

地続きの思索のために

当番ノート 第21期

おとといまで食育の全国大会が、住んでいる墨田区で行われていて、
準備も含めてけっこうバタバタしていた一週間だった。

先週はそれ以外に寺島なすという、かつての墨田の地場野菜の苗を区内の保育園に配って廻ったり、
その途中で見つけた軟式ボールの博物館のおじさんと仲良くなったり、ハワイ帰りの彼の息子さんと墨田を廻ったり、
大会中には東北芸術工科大のコミュニティーデザイン学科の学生さんの宿泊を、
運営するいくつかのシェアハウスで手分けして受け入れしたりした。
彼ら彼女らには本当にたくさんのことを学ばせていただいた。

そんなふうに若者たちと一緒に過ごすのはすごく楽しい。
いろんな事柄を投げるとそれに対して素直なレスポンスが斜め上から来て、
無垢な湧き水で全身にシャワーを浴びているような、
まぶしくて目を細めてしまうような気持ちになる。
次に彼らに会うときは、もっとずっと先に行っていようと思う。

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週が明けて昨日はあっという間にすぎてしまって。
今日も早朝から昼までは仕事していた、
いまはえんがわという縁側のあるシェアハウスの1階の畳のスペースで、これをぽちぽち打っている。
ここは風がよく通って夏でも涼しい。
裏には隣家の庭もあり、クーラーはあまりいらない。

風は水の上を通るものだけど、家の前の路がどぶ川だったことが関係しているんだと思う。
今は川は暗渠になって見えないけど、変わらず風を運んできてくれている。
そんな風のようにこの文章がそちらに届いたら嬉しいです。

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唐突だけど、
切実なものに全身が救われるというような無垢さがなくなってしまったことを感じる。
消費のわくわくでは体内の喜びキャパの3割くらいしか楽しくなくなった。
これはいろんな喜びを知ってしまったせいだと思うけど、
この喜びには3種類くらいある、と思う。
つかう喜び、シェアする喜び、つくる喜びの3つだ。

その3つはそれぞれに重なり合っていて、
光の3原色の3つのサークルの図のように、位置している。
なんかこれどっかで読んだ気もするけど、ひとまずそのまま書きます。

音楽で考えると、
音楽家はつくる喜びに突き動かされて、曲を書く。
その楽譜を持って、奏者はつくる喜びを感じ、
同時にほかの奏者や観客と音楽を共に味わう(シェアする)喜びを感じる。
観客もまた、その音楽をつかう(消費する)喜びを感じ、
同時に他の観客や奏者と演奏をシェアする喜びを感じる。

僕が食に関することをよくやるのは、
この3つの喜びが交わりやすいからかもしれない。

何時間もお話しするより、一緒に何かおいしい物をたべて、
その瞬間に目を合わせて「なっ!(うまいだろ?これ!)」ってやる方がずっと仲良くなれる。

農家や料理人がおいしい食べ物をつくること、
それをたべることで喜んでもらうこと、
「おいしい!」という感情や瞬間を人とシェアすること。

食は、生存に関わるごくごく真面目で切実なファクターだ。
それにやり方次第では、低いコストでたくさんの人とシェアすることが出来る。

大事なのはこの時、何人の人を喜ばせることが出来るかということだったりする。
(1人あたりからそれくらい対価をいただくかにもあるけど、)
基本的に、毎月、直接100人の人を喜ばせることが出来るなら、それは継続したプロジェクトになるとおもう。
1日たった3人だからたいしたことないよ、ささやかなもんだ。

それが、500人になれば仕事になるかもしれない。
1000人の人が喜んでくれるようになったら、次はなにが出来るだろう。

そんな、わくわく妄想することを繰り返して、時々ノートにまとめてみる。
わからないことが出てきたらまずちょっとやってみて、
失敗したらそれをネタにいろんな人をやんわり巻き込んでみる。
(いい失敗は最上のネタだ、みんな笑ってくれる)
うまくいくときっと次のわからないことが出てくるから、
それもちょっとやってみる。

そうやって、ちょっとづつ日常を拡張して行動してみる。
仕事や勉強や家事やニートをしながらでいい。
たぶんその最中わくわくは続くし、死ぬまでそれは楽しめる。
どんなささやかなプロジェクトでも、
そこに仲間がいれば、それはそれは楽しい時間になると思う。

最後に、おりに触れて読み返す、下村湖人さんの本からある言葉を引用して送ります。
ある飛行家が、長距離飛行の秘訣として常に守っていたといわれることで、
以下引用。
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それは、

高く飛べ。
まっすぐに飛べ。
ゆっくり飛べ。

というのであります。
この言葉は、おそらく人生の大飛行に出発しようとするものにとっても、
決して無用ではなかろうと信ずるのであります。

下村湖人 著「青年の思索のために」より

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たかくまっすぐゆっくり、いきましょう。
ではまた来週。

ここまで読んでくれてありがとうございました。
これからたくさん歩いて歩いて、友達とご飯を食べてきます。
みなさんの火曜日はどうですか?

松浦伸也

松浦伸也

すみだ青空市ヤッチャバの運営をしています。
シェアハウスの運営をしています。
研ぎ屋をしています。
売れない芸人を目指しています。

Reviewed by
小沼 理

この春から一人暮らしをはじめてつくづく思うのが、自分だけのために作る料理は本当に物足りないということだ。茹でた野菜の色が鮮やかになるのも、ご飯が炊けるにおいも隙だけど、そこに誰かがいればもっといい、といつも思う。

以前、文化人類学者の石毛直道さんの文章を読んでいたら「人間は他の個体と共に食事をする唯一の動物である」と書いてあった。動物は基本的に大人になれば自分の食べるものは自分で得なくてはならない。親が子に分け与えるというようなことはあるけれど、人間の場合、その期間が他の動物と比較にならないほど長い。その過程で、ヒトは共に食事をするということを発達させてきたようだ。そしてその中で、文化や哲学もシェアするようになっていった。

音楽でも美しさでも、もしかすると僕たちの「分かち合う喜び」の根源はすべて食にあるのかも。忘れている時もあるかもしれないけど、その原始的な喜びはみんなが持っている。そのことを思い出して、誰かのためにやってみる。

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