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2F/当番ノート

若くない人は自己肯定の範囲の豊かさしか持てない

当番ノート 第21期

前回は本当に直前に、火曜日の日中に書いた文章をそのままあげたのですが、
関係者の方に迷惑もかかりそうなので、土曜日のうちに書いて、推敲して公開します。

それくらい正直にならないとかけないのが文章なんです。
嘘があるとすべてばれてしまう。
おそれるのは過剰な自意識の仕業かもしれませんが、
思いのほか人の所作は意図しないものを伝えるし、伝わってしまうと思います。

毒にも薬にもならない、冗長でまとまりのない文章書いてて、
おまえ何だって思うかもしれませんが、今回もだらだら真面目に書きます。

若くない人は自己肯定の範囲の豊かさしか持てないものですよね。
年を取って経験を重ねれば、それなりに多くのものが背中に引っ付いてきますし、
慣れている事に当たるときは、かなり深いところからはじめることが出来ます。
しかしながら、それでもそれは狭い狭い自己肯定の範囲の豊かさなんです。

その上で、
僕は生きるときに大きくこの方向、と捉えていることがあります。
それは幼少時に気付いた「死」というものに対する恐れと同根のものかと思いますが、
死にたくないから生きよう、ということです。
その考えは思索の癖として僕を形作り、2つの自我の流れをつくりました。

一つは、外的に死なない、殺さない状況という部分から発展して、
だれも傷つけたくないという願いに至りました。
同時に、生きることがどうしようもなく持つ加害性に気付いたとき、
その上でなお「優しくあろう。もしくは意図的に加害しよう」という矛盾する考えに至りました。
これの前半については、最初の日記に書きました。
加害についてはまた機会があれば書きます。

一方で、内的に死なないためには、
老人の考えが発展性を失い、どんどん狭隘なものになっていくことから、
成長の停止→死という現象をつかみ、
それが発展する過程で、何でも知ろう、学ぼう、常に素直に吸収し続けようと願いました。
青年期にインターネットで集合知というものに出会って、願いは進化しました。
笑われるかもしれませんが、まじめにWikipediaのようになりたいと考えていました。

それは集合知から構造を抜いたような、
発展を続ける単細胞生物(アメーバー)のイメージ。
シンプルでありながら固化していかない、個の境が曖昧になるほどしなやかな精神運動を求め、
そのために、精神を常に活性しつづける。
それには、どうすればいいかを考えつづけるということです。

信仰心がないため、僕には師がいません。
同時にあらゆるものが師になり得るのですが、
それは砂漠を深く広くあてなく掘り進むような、手応えのない思索の旅です。

砂漠の中、
汗まみれになってやっと見つけたきらめきは、くだらないガラス瓶のひと欠だったりする。
無意味なんじゃないかと、何かにすがりたいような諦めたいような気持ちになる。
(中島敦の悟浄出世を読んだとき、いじけた悟浄が自分とあまりに同じなので動揺し、感動しました。)

これをしていこうと考えたのは、親の掌の上でのんびりしていた頃で、
状況は変わりましたが、それは間違っていなかったのではないかと感じています。
掘ることでついた筋肉は、僕を内的外的双方で支えてくれているし、
いまも健康に楽しく暮らせているからです。

今日は最後に、その精神の活性をし続けることについて書いて終わりにします。
実はこれにはとても有効な方法があるのですが、良ければぜひやってみてください。

それは、
「脳みそが吹っかけてくる不条理な提案を即、実行する」という方法です。
人は常に脳みそがあげた選択肢の中で選択をして行動をします。
それが瞬間的であるため、無限の自由の中で自覚的に選択していると錯覚する。
でも実は、もっともっと外的な要因でもって選択しているにすぎないんです。
選択肢はあらかじめ決まっていて、選択は外的要因に依存している。
つまり不自由なんです。

でも、選択肢はふやすことが出来ます。
やるべきこと、やりたいこと、できたら面白いこと、くだらないくて笑えること、意味も脈絡もないこと。
自分にだけ迷惑がかかる状況で、
その現実を再定義して、常識から少しずれたことも考えてみましょう。
身も蓋もないことには宝が隠されていることが多いです。

最初は疲れますが、選択肢を増やす訓練をすれば、
選択肢は10近くばーっと出てくるようになります。

あとは、その選択肢の優先順位を少しだけ、操作する。
心地いいかどうかを優先してみたり、わからないけど面白いという要素を第一にしてみる。
すると面白い歩みになります。(狂人を演じる必要はないです。自己演出は突き詰めると虚無になります。)

僕はそんな実験の日々の中で、
酒を死ぬほど飲んだり、20代後半になり酒が習慣づくと、
一切、呑むのをやめてみたり。(今もそれは続いています)
140kg以上の身体を抱えて、あてもなく何十キロも歩いたり、断食したり、
まったく新しいこと、今まで考えてなかったことをはじめてみたり。
人に見られたら奇行と思われるかもしれないような行動をひとり、やってきました。

変に見られるかもしれませんが、気にすることはありません。
その先には何かがあるんです。
それは、自分の限界かもしれないし、
それは、些末な気づきかもしれない。
もっと大事な何かに繋がるものかもしれません。
大事なのは自ら未知をつかむことが出来るということです。

それでも変に見られるかもしれませんが、気にすることはありません。
心からそれを楽しんでいる味方はたくさんいます。
しかもみんな、めちゃくちゃ面白いやつら。
昨日はパーリー建築という若者にお会いしました。
彼らは無料で建築をして、パーティーをしながら歌を歌って暮らしている。
最高にいかした、気持ちのいい方々でした。

まず、利欲から離れたことに時間をかけてみる。
その過程にある未発見のなにかにわくわくしてみる、触れてみる、味わってみる。
様々な経験の果て、必ずいまとはちがう景色が見えるようになります。
それはなかなか味わい深くて面白いものです。

今日はこの辺で。
また来週火曜日にお会いしましょう。

松浦伸也

松浦伸也

すみだ青空市ヤッチャバの運営をしています。
シェアハウスの運営をしています。
研ぎ屋をしています。
売れない芸人を目指しています。

Reviewed by
小沼 理

その思索はどこか禅の公案のようでもある。たとえば、よく知られるのは白隠禅師の『隻手音声』。

「両手を叩くと音がします。では片手を打つとどんな音がしますか?」

公案とは禅宗の修行僧が悟りを開くために師から与えられる、常識では答えようのない問答だ。松浦さんは自らに、あらゆるものの中に師を見出し、たったひとりでその問答を試みているように見える。
自己の更新はいつでもされ得るのだ。未知との遭遇を望むのであれば。

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