「人魚が星見た」最終話・三浦海岸/三崎口(後編)

第21期(2015年6月-7月)

▼三浦海岸/三崎口(後編)

人魚が騒ぐので、つりこまれるようにして、三浦海岸ゆきのバスに乗った。なるべく後ろの方を探し、ふたり掛けの席を選んで座った。車が走り出すと、人魚はしずかになった。

空はみるみる、すみれ色が深くなる。遠くに風力発電の風車が二本、浮かんでいる。車内のあかりが、私の顔を窓に映しだす。海から離れて山道をのぼり、バスは畑のひろがる丘に差しかかった。夕暮れの底に沈む畑は、夏のすいか畑から春のキャベツ畑へ移りかわったかと思うと、冬の雪よけのビニールハウスの風景から収穫のすっかり終わった秋へと、季節をごちゃまぜに通過していった。薄いねずみ色が塗りかさねられるように景色から色が落ちてゆき、バスは暗い丘を進みつづけた。心細くなってかばんをあけ、タッパーをのぞくと、人魚はぱっちり目をあけてこちらを見ていた。まつげを時折またたかせ、おとなしく体をまるめている。

急ブレーキがかかり、停車した。また誰かが乗ってくるのかと、少し身がまえた。車窓から外を見やると、歩道の先に電話ボックスがある。女が受話器をとり、電話をかけているのが見える。赤い帽子をかぶった、あの魔女だった。帽子の赤だけが、目にさえざえと明るかった。
もしもし。
魔女の声がした。もしもし。答える。
人魚は、げんき?
げんきよ。前よりもっと、げんき。
自信をもって、言った。
よかったわ。
電話の向こうで、魔女の小さいため息が聴こえた気がした。
ねえ、今もまだ取り返したいと思う?
魔女の言葉に、私は少し考えた。
わからない。もう、つかれた、かもしれない。
本心がこぼれた。ブザーが鳴り、バスが動き出した。どれくらい停車していたのか、さだかでない。後ろを振りかえると、電話ボックスには誰もいなくなっていた。
このまま行けば、海岸よ。
声だけが残って、車内の空気をふるわせた。

海岸通りでバスは停まり、扉がひらいた。同時に車内の明かりが消え、運転手も見えなくなった。外に出て、浜に降りる。漆を黒く塗りこめたような海面に、ぼうっと青白く光る波がたゆたっていた。人魚が外に出たいと言うので、タッパーをあけて胸に抱いた。すると人魚は、体を腰からふたつに折って、しっぽをばたばたさせ、降ろしてほしがった。波打ちぎわに置いてやると、人魚は夜の海も恐れず、いさんで入っていった。ときどき私の方を振りかえりながらも、流されて遠くなってゆく。
どうするの? 行っちゃうの?
私は声に出して、人魚に訊ねた。
行かない。行かない。ちょっと離れるだけ。
人魚は、きらきら光る波間から叫んだ。ほとんど歌っているみたいだった。

背中のほうで砂を踏む音がして、人の気配があった。
夜光虫だね、あれは。
気づくと横にNがいて、私に青白く光る波の正体を教えてくれた。人魚のあたまが見え隠れするたび、さざなみが立って、夜光虫のむれが揺れる。
あの子、かわいくなったでしょう。
Nに聴かせるように私は言った。
大きくなったね。
ほんの、最近のことなのよ。あなたがいなくなって、ほんの最近のこと。ひからびて死んだりしないで、ちゃんと生きてるの。
思わず勢いこんだ。私の声を聴きつけた人魚が、向きを変えてこちらに泳いでくる。波にうまく乗り、転がるように浜に乗りあげる。大きくなったとはいっても、夜の海ではすぐ闇にまぎれて見失いそうなものなのに、今は、這ってくる人魚の腹の下でざらつく砂、ひと粒ひと粒の感覚まで感じとれる。隣に立っているNの存在より、はるかに強く。

ずっと探してここまで来たけど、あなたは、どこにもいないのかもしれない。
ぽつりとつぶやく。Nが呼応する。
最初から、人魚しかいなかったでしょう、きみのところには。
そうだったかしら。
考えこんだ。Nはもう、ここにいない。死んだ人魚に引きずられていなくなってしまった。いないのなら、もう慕わしさを感じないですむ。まとわりつくあやかしの女もいない。いたのは最初から、私の人魚だけだ。何の前ぶれもなく、私はNの首すじに両手を伸ばした。汗ばんだ肌の感触がちゃんとあって少しひるんだ。あわよくばこのままくびてやろうと力を入れたが、なんなくほどかれて突きはなされる。いないものは、殺せない。さわれるけど、ここにはいない。その時、這ってきた人魚が私の足にこつんとぶつかった。下を向くと、ちょうど人魚と目があった。

来ないんだね。
人魚を見つめて黙っている私を見て、Nは何かを了解したようだった。
行かない。人魚が寂しがるし、人魚は置いてゆけない。
人魚と一緒でもいいよ。
それは、だめ。脱皮して、せっかく大人になったばかりだから、それはだめ。
強い意志を持って、言った。人魚を守りながら、今や私も、人魚に守られているのだった。ねえ私の人魚。これから先も死なないで、ずっと生きて、離れないで。砂浜に座りこみ、一生懸命呼びかけた。すると人魚は口をひらいた。人魚は遠くまで泳いでいくけれど、一生一緒なの。離れても一緒なの。離れても離れられないの。それが人魚なの。そのように、とめどなくしゃべった。それからふたたび波打ちぎわまでゆき、今度は勢いよく海に飛びこんだ。人魚はその小さい体で、夜光虫のむれを散らすように、ばしゃばしゃと波を跳ねあげて暴れまわった。

人魚に追われた夜光虫は、ちりぢりにひろがった。青白いかたまりはばらばらに崩れて、あるものは海の底へ沈み、あるものは空へ逃げて星になった。それでも人魚は跳ねまわるのをやめない。私は不安になって、大きな声を出した。
行かないで、おねがい。
行かない。行かない。ちょっと離れるだけ。
人魚はまた叫びかえして、ようやく跳ねるのをやめ、しずかに泳ぎはじめた。夜光虫のいなくなった海は石油をたたえたように暗く、すべての光を吸いこんで、とろりと重たげだった。

私は立ちあがって、体についた砂を払いおとした。風が出てきていた。吹きちらされた髪が視界をさえぎる。束ねて押さえつけながら、私はとうとう言った。
もうここには、来ない。
つかえが取れるように、言葉が出た。湿った夜風が、胸を通りぬけた。ここにいないものは、消えていた。

人魚はまだ、戻ってこない。海から顔を出して浮かび、のんきに星空を見あげている。

三崎口