「人魚が星見た」第二話・黄金町

第21期(2015年6月-7月)

▼黄金町

Nの部屋にはくしがない。姿見もないし、壁掛け時計もない。だから泊まるといつも髪を整えることに難儀するし、時間をすぐに知ることもできない。そういう、不足ばかりの家だが、ある時Nが琺瑯(ほうろう)のたらいを買って帰ってきた。青いふちどりのついた、白くてきれいなたらいである。新品の日用品をそろえて生活を豊かにするタイプの男ではないはずだから、私はびっくりした。Nは、「海に帰す日に向けて、だんだんひろいところに住まわせる」と言って、ビールグラスから人魚をすくいあげた。人魚は差し出されたNの手に自分から乗った。どうも人魚は私よりNが好きらしく、ときどき歯を剥き出すようなしぐさもする。笑っているのだ。人魚にとっても、私以外の人間に馴れるのは初めてのことである。うつくしい琺瑯製の家を与えてもらい、人魚は一回り大きくなったように見えた。

人魚のことは他人に知られたくないと思っていた。でもひとたび話の通じる相手ができると、知られずに生きていた頃のことはすっかり忘れた。体が馴れてしばらく経つと、こころがもっと欲をかく。今まで知らずにすませてきたことを、どうにか知りたい気持ちがきざす。

昔飼ってた時は、どんないれものに入れてたの?
何だっけ、忘れちゃった。
死んだ人魚のことを訊ねると、Nはいつも私をはぐらかす。以前訊いてみた時もそうだった。
どこで拾ったの?
友だちが連れてきたよ、とその時彼は言った。私は、ふうん、と答えてもう少し粘った。
えさは何をあげてたの?
自分ではやってなかったから。
言いながらNは人魚のうろこを丁寧に撫でつけて、はがれかけているものを取っては綺麗にしていた。私が今まで一度もしてやったことのないようなことを、Nはする。
どうして死んじゃったの?
友だちが出て行って、しばらくして自然に死んだよ。
それを聞いて「友だち」とか「出て行った」とかいう言葉の意味を瞬時にいろいろ考えたけれど、その時は何も気に留めていないふりをした。

それで、さっきのことである。「なんで台所に入ってくるの、料理なんかしないくせに」と私が言うと、Nは「レタスチャーハンはつくれるよ」と言った。こういう時、男が「つくれる」と例示する料理名は「それしかつくれない」と同じ意味である。「じゃあキムチチャーハンもできる?」と訊ねると、案の定黙ってしまった。私も黙ったので話が続かなくなり、Nはすごすご台所から出ていった。出て行きざまに、ねえ、お昼にホットケーキ焼いてほしい、と乞われたので、無言でホットケーキミックスを買いに出た。そのままスーパーマーケットには行かず、電車に乗りこんだ。やみくもに乗り継ぐうちに、京急線の各駅停車に乗っていた。

横浜を南に越えると急に不安になってきた。車窓から川が見えたので、逃亡は中断し、次で降りることにした。各駅停車は川沿いをしばらく走り、高架駅に到着した。改札を出るとすぐ右手は川で、大きな橋がかかっている。橋の真ん中まで行って川面を見やる。水はきれいではないけれど、見晴らしはいい。次の橋が、そう遠くない距離に見えた。

では次の橋まで、と思って歩き始めた。すでに濃く硬くなった葉が川沿いの桜並木をおおっている。めざしていた橋にたどりつくと、また次の橋が見えるので、此岸から彼岸へ、橋をわたりながらジグザグに進む。何か生きものがいないかと目を凝らすと、ぎょっとするほど大きな鯉がぱくぱく口を動かしているのが見えた。こんなところに放りこんだら、ヘドロで窒息するか、このぶきみな鯉に食われるかして人魚は死んでしまうだろう。こういう川でもたくましく生きる人魚と、別に生きなくてもいい人魚がたぶんいて、うちの子は生きなくてもいい方だ。あの子は今、Nとふたりでどうしているだろう、と思った。

駅まで戻ろうとして川を離れ、高架下に入った。線路の下がところどころ広場のようになっていて、子どもたちが遊んでいる。バズーカ砲のかたちをした水鉄砲を持って、互いに撃ちあっている。彼らは濡れた手をくたくたのTシャツでぬぐうと、今度はじゃんけんで鬼を決める。いちばん小さい男の子が負けた。
「この子1年生だから、手かげんしてあげなー」
体の大きい少年が走りだしながら気づかいを見せる。鬼になった子はやはり誰もつかまえることができず、「待ってよう、ちょっと、今のなし」と怒ったり笑ったりしながら、もつれる足で友だちを追いかける。小さなビーチサンダルが脱げて転がる。鬼の子の笑い声はだんだん泣き声に変わる。「待ってよう、おれの水鉄砲重いんだもんー」と、鬼ごっこに関係ない言い訳をしながら、彼はサンダルを引きずって走っていった。ずっと見ていたはずなのに、気付いたときには子どもたちは小指ほどの大きさになるくらい遠くへ去っていた。しなびた風俗店やスナックの看板が並ぶせまい路地に、傾いた日がさしていた。

おなかがすいてわびしい気持ちになると、置いてきたものたちが気になり始めた。電車を乗り継いで戻り、ホットケーキミックスを買って、Nの家に帰った。扉をあけると、Nはまだ寝まき姿のままだった。もう帰ってこないかと思った、と言うので、帰ってこないつもりだったよ、と返事した。

ホットケーキ、人に焼いてもらったの初めてだ。Nはうれしそうにシロップをたらし、切り分ける。焼いてくれる人いなかったの、と訊くとわざと悲しそうにうなずく。恵まれない人生だったんだね、と言うと、そうなんだ、とうつむいた。かわいそうに思ったので、今度ホットケーキミックスでドーナツ揚げてあげる、と言うと、そんなことができるなんてすごすぎる、としみじみ驚いていた。

視線を感じるので顔を上げると、人魚が水面から首を出し、恨みがましい目でこちらをねめている。えさ、あげた? と訊くとNは、まだ、と言った。テーブルのシュガーポットから角砂糖をひとつ取り出し、たらいに投げ込んだ。人魚はうまくキャッチして、やけを起こしたみたいにガリガリ噛じりついた。
君がいなくなったら引き取るつもりだったよ、この子。
ぽつりと言ってNは、人魚の頭を撫でた。人魚は角砂糖を抱えたまま鼻をうごめかした。
あなた、死なせるから嫌よ、と私は断った。

黄金町